イースターについて知りたい、ということでサイトを検索すると、ひっかかってくるのが、しばしば「イースター・エッグ」。もちろん、そういう習俗もあるのですが、コンピュータ・プログラムの仕掛けとしてのそれも多く、開いてみると、全然教会とは関係のない記事にがっかりします。
また、なんだか怪しい集いのようなものの名前にもあるようです。
キリストの復活を祝う意味での「イースター」を調べたい場合には、「復活祭」の言葉で検索をされるかとよろしいかと思います。イースターの意味や由来、とくにその日付の決め方は謎めいていて、多くの人の興味を誘うらしく、さまざまなレポートに出会うことができます。(クリスチャンではないが、と断って記すあたりが、なんとも可愛いというか、妙に日本人的であるような気もします。このあたり、突っ込んで考えると面白いテーマです。)……ということで、たかぱんとしては、そのあたりのことは、そうした優れた発表にお任せすることにして、「教会は楽しい」のテーマに沿う形でお知らせすることに致しましょう。

教会によっては、イースター前の一週間の、いわゆる「受難節」を、荘重な面もちで過ごすこともあります。なにしろ、救い主イエス・キリストが十字架にかかった週です。その痛みを思うと、安穏としてはおれない、ということでしょう。おそらく一般的に、その傾向は、プロテスタント教会よりもカトリック教会のほうが強いかと思われます。
カトリック国で盛んな、あの派手な「カーニバル」という習慣も、こうした重々しい受難を迎える禁欲的な日々の前に、せいぜい楽しめるだけ楽しんでおこうという気持ちから始まったとされています。
キリストの十字架と復活は、たしかに、キリスト教における最大のポイントです。これなしには、キリスト教はありえません。福音書という、キリストの生涯を記録した文献の中の大部分が、この最後の一週間のために割かれているというのも、当然と言えば当然でしょう。他の三つの福音書と大きく異なった記述の仕方をする「ヨハネによる福音書」では、キリストの説教と祈りが長く展開されています。

イースターという名称自体は、本来キリスト教のものではありません。春を呼ぶ神話に由来するといわれます。やはり「復活祭」のほうがいい、とたかぱんは思います。
これは、日付の決定が難しいと言われる反面、クリスマスと比べて、はるかに明確な記念日です。この日の日付が毎年変化するのは、ユダヤの暦、陰暦に基づいているからであって、逆に言うと、キリストが十字架にかかり、よみがえった日は、暦の上でははっきり間違いなくこの時期だと分かっているということになります。
春を呼ぶ、過越の祭のときに、十字架と復活はあったのです。
この過越の祭は、ユダヤで最大級の祭であり、イスラエル民族がエジプトでの奴隷的身分から解放されたことを記念する祭です。
イースターは、そのために、春を祝う土着の祭と結びついていくことにもなりました。クリスマスが冬至の祭と結びついて、おそらく現実にイエスが誕生した季節ではないであろう12月に定められたのと比較するとおもしろいものです。

イースターの日、プロテスタント教会での礼拝は、しばしばふだんとあまり変わらない礼拝となります。ただ、十字架と復活が語られるのは間違いないだろうとは思われます。会衆は、自分の救いの原点を見つめ、精一杯の想像力をもって、イエスの痛みを感じようとしたりします。
ただ、この日に受洗、あるいはバプテスマがよく行われることは、特筆すべきです。
いわゆる洗礼。けっして、ルーキーの投手が試合でホームランを打たれることをいうのではありませんが、それと同様、洗礼は終わりではなく、むしろクリスチャンとしての人生の始まりを指すことになるのでしょう。教会の中には、いつでも洗礼を施すところもありますが、クリスマス、イースター、ペンテコステに限って洗礼式を行うというところもあります。イースターにまったくしない(受洗者がいなくてできないというのではなく)教会は、希だと思います。キリストの死とよみがえり、これほど、洗礼に相応しいときはありません。名実共にクリスチャンとして歩み始めるとき、罪の中に沈んでいた過去の自分に死に、新しい光の子として生まれ変わるわけですから。

もちろん、この洗礼式そのものに、人を救う力があるのではありません。救いは主にある、というとおり、神が人を救うからです。キリスト教は、徹底して、人を神にすることを避けます。人間が神のようにふるまうとき、それこそが神に敵対する最大の罪であるという根本的な立場があるからです。
すぺての人が、神の前には誤りを犯しうる人間である、という認識をもつことは、簡単なようで、なかなかできないものです。私たちが人に対して怒りを覚えるとき、その人は完璧だからこれができないわけがない、などと思いこんでいるがゆえに怒っている、ということさえあるからです。

イースターの礼拝に出席して、心いっぱい、春に満たされませんか。
