恋の浦という、ロマンチックな地名が福岡にあります。
それなりの悲劇を背景にしているようですが、その恋の浦海岸に、大きな公園が作られていました。
過去形で語るのは、今は閉鎖されてしまったからです。なんとももったいない話ですが、経営を続ければ続けるほど赤字になるというのでは、仕方がないところです。
この「恋の浦公園」というところには、ところどころ彫像が置かれているのが特徴でした。具象的なものが多かったような気がしますが、なかなかの作品が並び、緑の木の間にときおり芸術作品を楽しむことができるようになっていました。
私たちが福岡へ来て間もなくのことでした。休みの日に、恋の浦へ行きました。Jr.1はほどよく走り回っていましたが、Jr.2はまだよちよち(トコトコ?)歩きに近いようなものでした。
目の前に、大きな彫像がありました。宣教師のような風体の西洋人が、両手を挙げて空を見上げています。なるほど、「祈り」と題したものでした。とくにユダヤの祈りは、天に両手を差し出して、神とサシで祈るようなものだと聞きます。今でも、激しさをもつといわれるキリスト教のペンテコステ系も、たぶんそんなふうな力ある祈りなのでしょう。指を組んでうつむくというものではなく、まさに天に向かって叫ぶようなものです。
身の丈の何倍もあるその像の前に、Jr.2は圧倒されたかのように立ち尽くしていました。しばらくじっとその像を見上げて静止しているので、どうしたのかと私たちは見守りました。
Jr.2が口を開きました。
「"だっこして"っていってる」
天に向けて祈る姿は、Jr.2の見たところでは、「だっこして」という願いでした。
私たちは、祈りってそういうものだと目を開かれた気がしました。――もう自分で何かをするのではなく、神よ、あなたに助けを求めます、あなたが私を助け上げて下さい。
早速京都の教会へ知らせたことは言うまでもありません。ただの親ばかに過ぎないことではありましたが……。
幼子のようにならなければ、神の国には入れない。イエスがそう言ったのは、親になってみれば、うなずけるような気もします。子どもが、親を全力で頼って手を伸ばすとき、大人はなかなか神に対してそんな気持ちになれるものではないのだ、と感じ入ってしまうのです。
祈りというものについて、信じることを知らないときの私は、形だけのものだとか、祈って何になるとか、感じていました。しかし、それは自分で祈ってみないことには、分からない世界でした。神に対して文句をぶつけるにしても、それはすでに祈りであったのです。さらに、賛美も祈りであるし、自分を空しくした思いが動くとき、祈りとしてすでに働いていることも分かりました。
祈りがどうとかいうほど私も偉そうなことを言える立場ではないのですが、それでも、体験した者には、分かります。また、他の人の、祈りがきかれたというふうな体験談も、まさにそうだという実感を以て聞くことができるのです。
教会には、礼拝において、公祷というプログラムがあります。
祈りとは、密かに行うべきものだという側面がありますが、また、人々の前で祈るということも、祈りの一つの面です。イエスは、二人三人と心合わせて祈るところに私もいる、と仰いました。パウロの言うように、異言ではなくて預言とするなら、この祈りは一つの預言であることでしょう。
私もまた、こうした文章をお読みくださる人々のために、祈ります。いえ、すでにこの文そのものが、祈りである、とも言えます。
お行儀のいい「おいのり」ではないかもしれませんが、私たちは、祈るしかないような状況でも、祈ることができる、と励まされて、この世を歩んでいくことになります。
教会では、なにも善人ぶって恰好よくお祈りをするというわけではありません。自分の問題のために切実に祈る人もいれば、もっぱら他人のためにひたすら祈る人もいます。あるお年寄りは、巻物を作り、そこに教会の人の名を記し、また祈りの課題を記し、毎朝祈っておられました。
こうした祈りは、自分が偉くなるためでもなく、心が洗われるといった心理的効果のためにするのでもありません。祈りには力があります。神への真摯な祈りは、間違いなく聞かれています。それが私たちの思うような形で叶うかどうかは、それとは別問題です。
私はただ、神さまに「だっこ」と求めるような祈りを、素朴な本来の祈りだとつくづく感じたというわけでした。
