伝道という言葉があります。道を伝えるというのはなかなか面白い言葉で、日本語では、剣道、柔道など武道という如く、スポーツもまた心を伴う「道」として捉えられています。見た目の形にとらわれず、どこにも人の生き方のようなものが想定されていくのでしょう。
教会でも、この言葉を借ります。キリストがもたらした救いの信仰を、人々によい生き方として伝えることです。
ところが、それは具体的にどのようにするのでしょう。
街頭に立ち、神は愛です、と連呼することも伝道でしょう。路傍伝道と呼ばれ、かつてはしばしば行われたといいます。今でも、初詣の列の脇で、真の神に帰ろうと旗を掲げ訴えるグループがあるかと思います。
放送媒体を使うこともあります。テレビやラジオといったメディアは、現代的な伝道です。いわゆる宣伝ということですが、一部の選挙運動のように名前ばかり覚えてもらえばいいというのでなく、じっくりと聖書の世界について紹介する番組や、聖書から光を得た人の体験談を聞くという番組もあります。
時には、伝道の意図とは関係なく、文化や教養として、あるいは宗教の時間として、NHKの中で聖書やキリスト者についての紹介がなされることもあります。これは、教会などの企画したものではないにせよ、結果的に伝道している範疇に溶けこんでくるかもしれません。
個人的には、人にお手紙を書いたり、訪問したりすることがあります。
友だち関係の中で、そうした話をもちだすということもありますし、集まって企画して誰かを訪ねるということがあるかもしれません。
理想的には、存在と行為そのものが伝道であれとも言われます。
実はクリスチャンなんです、ということが分かったとき、「あの人は何かが違うと思った」と人に言われるような姿も、その一つのあり方だ、とも。「やっぱり」みたいな生き方をしていくべきだし、それは自分でそうしようと努力してするというものでもないと言われます。ただニコニコしているだけ、ただ背筋を伸ばして歩いているだけ、そんな中でも、それを見て感じる人は感じるものでしょう。
作家や文化人にも、クリスチャンがいます。中には、それを堂々と表明して伝道的に訴えるようなタイプの人もいれば、逆にそんな人をむしろ売名行為だと非難するタイプの人もいます。比較的の問題ですが、前者がプロテスタント的、後者がカトリック的な印象が、私にはあります。
どちらが善いとか悪いとか言うつもりはありません。
世間に注目される仕事をしている人が、聖書を口にすることには、大きな影響があります。

さて、ようやくバティスタ選手の話題に入ることになりました。
福岡ソフトバンクホークスに、鳴り物入りで入った大型大リーガー、トニー・バティスタ選手は、シーズン当初は、その大物ぶりが表面化せず、高い買い物だと悪口もたたかれました。
ただ、バティスタ選手は、あることで非常に有名になりました。
キリスト教の伝道です。
どこへでも聖書を携行し、ロッカールームでいつもそれを開く。事あるごとにそれを口にする。周りの人に、聖書を読めともちかけ、プレゼントしたりする。
それどころか、自分が何かよい結果を残せたときには、それをすべて神の賜物だと感謝することを善い憚らない。
野球関係者には、すっかりおなじみです。
開幕前日には、取材の記者に向かって、「あなたは亡くなった後、魂はどこにいくか知っていますか? 答えられないでしょう。聖書を読んでないからです」と説教まで行ったそうです。
中日の某投手は、母国での発砲事件で逮捕されたことがあるなど苦悩の中にあったそうですが、バティスタ選手にスペイン語の聖書をもらい、それを読んで平安を得たと言います。
その他、試合で活躍しインタビューを受けたときには、必ず「神(イエス・キリスト)に感謝」と口にすることは、もう当たり前のこととなっています。
たしかにバティスタの活躍は神がかりでもあります。あの極端なバットの構え方(オープンスタンス)そのものも、神の思し召しとして与えられた打ち方だとして決して変えようとはしないのですが、期待されたホームランはあまり出ないなどと言われながらも、パ・リーグ通算4万号を打ち、ホークス球団7000号もちょうど打ち、名前を遺すことになりました。
インタビューでは、「自分がホークスに来たのは、神のお導きだということを改めて感じたよ」などと言って。
5月9日の対ヤクルト戦では、デッドボールを受けたとき、すぐさまマウンドに向かって走るポーズをしたことで、石川投手はすたこら逃げ去りましたが、当のバティスタ選手は、するりと向きを変えてファーストへ走って行ったということで、爆笑を買いました。
誰もが面白いと歓迎したプレーでもありました。乱闘をしない、バティスタでした。
地元RKBラジオの女性アナウンサーなどは、「こうなったら、もうホークスの選手、みんなクリスチャンになればいいんじゃない?」とまで、冗談とも本気ともつかないような言い方をしてしまいました。
記者はあてこすり的に書いてはいますが、スポーツ新聞でも、ヒーローインタビューでのバティスタを布教活動だとして、「あの場面で打席に立たせてくれた神に感謝したい。観客のみなさんも神が導いてくれる道に従って下さい」と掲載しました。
西武ライオンズのカブレラ選手も、ホームランを打ってホームインするときには、必ず胸に十字を切ります。でも、こちらは布教までしているつもりはありません。ただ、見る人は見ています。
こうした行為は、Jリーグで活躍する外国出身のサッカー選手にもしばしば見られます。
何も、パフォーマンスでそうしているのではありません。本人が思わずそうやっているのが、カメラに写ってしまうだけなのでしょう。
陽の当たるところで仕事をする人々は、多くの人に影響を与えることができます。よい活躍を願って止みません。
ただ――順調なときこそが伝道だという見方は、できれば避けていきたい、とも思います。
苦しいとき、困難な中で、どう立ち上がるか、もまた、キリストが共にいる姿でもあります。
これは、キリスト者の中でも起こりがちなことなのですが、晴れ晴れとした喜びがあるときには神の祝福だねと大いに祝福し合う一方で、難しい立場に追い込まれて苦しんでいる人に対しては、せいぜい慰めるばかり、悪くすればあなたが信仰を立て直すように祈っています、などという姿勢で対するといったことがありえます。
ヤコブ書に、金持ちはどうぞと前の席へ誘い、貧乏人は後ろで立って見ていろ、と命ずる愚かな信徒の姿が描かれていますが、これを精神的な金持ちと貧乏人とで考えると、上の例は、このヤコブの指摘の一端であるとは言えないでしょうか。
苦しい人にもまた、あるいは時に苦しい人だからこそ、主が共にいます。そしてそこから、できる証詞があり、伝道があることでしょう。
これは、私自身も失敗があるので、自戒として述べています。
バティスタ選手も、打てないときに取材した声を、報道してもらいたいなと思います。不調のときも、彼は感謝があるに違いありません。そこにまた、大きな伝道の力がきっと現れることでしょう。
