渡された十ムナ

2005年10月

◆「ムナ」のたとえ
19:11 人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。
19:12 イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。
19:13 そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。
19:14 しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。
19:15 さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。
19:16 最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。
19:17 主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』
19:18 二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。
19:19 主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。
19:20 また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。
19:21 あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』
19:22 主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。
19:23 ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』
19:24 そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』
19:25 僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、
19:26 主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。
19:27 ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』」(新共同訳聖書)


パンダ

 ザアカイを救い、アブラハムの子の失われた者を探し当てるメシアであることを、イエスは宣言しました。

 このとき、ムナのたとえが語られます。

 神の国がすぐにも現れるものと思っていた人々に、釘を刺すためでした。とはいえこのとき、すでに運命のエルサレムへ向けての歩みが始まっています。間もなくエルサレムに足を踏み入れようとしているところです。それでも、神の国、神の支配はまだ「すぐ」ではなかったのでしょうか。

 

 立派な家柄の人が、王の位を受けて帰ることになったそうです。これがどんな習慣や背景に基づいているのか、よく分かりません。ただ、このたとえの次に、いよいよエルサレムに迎えられたイエス自身の姿を示そうとしていることは、間違いありません。血筋は王に相応しいのに、まだその位を実現されていなかった、という意味に理解しましょうか。

 

 このとき、十人の僕が呼ばれます。

 渡されたのは、十ムナという金。さて、どのくらいの額に想像しましょうか。1ムナは100ドラクメ、このドラクメとはデナリオンと等価とされ、デナリオンとは1日分の賃金だといいますから、ざっと1万円であるとして計算すると、十ムナが1000万円となるでしょうか。なかなかの額ではありますが、マタイのタラントンに比べると、現実的な額だと見ることができるでしょう。

 これを元手に商売をしろ、と命じます。僕一人あたり1ムナが渡されたことになります。100万円。大きな店を構えることは無理ですが、うまく投資すれば拡大していく可能性を秘めています。

 僕一人に、1ムナが渡された、ここをよく心に留めておきましょう。

 

 ここで妙な言及が入ります。国民はこの人を憎んでいたので、使者を寄越して、王なんかとして受け容れないぞ、と伝えます。ここで言う国民とは、僕とは世界を異とする人々のことです。イエスが王の王としての位を戴くことを快しとしない輩です。

 イエスは、遠い国へ旅立つことを経なければなりません。十字架の死を受けて、陰府にくだるという、遠いところへ一度行かなければなりません。しかし、この国民なる者たちは、これを認めないのです。

 結局、イエスの十字架の贖いを認めない、という人々のことを表していることになるでしょう。

 

 それはそれとして、十ムナの行方を追いかけましょう。

 いよいよ王の位を受けて戻ってきた主人の目の前に、僕たちが呼ばれました。一人1ムナが与えられていました。さて、それらの元手はどうなっているでしょうか。

 ここで王となった人は、「どれだけ利益を上げたか」を知ろうとしています。王であるイエスは、かくも目先のもうけを大切にするのでしょうか。

 一人は、1ムナから十ムナを得たと報告します。これに対して主人は、これを良い僕だと褒め、十の町の支配権まで授けます。それは、「ごく小さな事に忠実だったから」だといいます。

 これは、ルカ16章の難しいたとえを想起させます。不正な管理人のたとえで、小さな事に忠実な者は大きなことにも忠実であることが保証されます。私たちの小さな信仰行為が、神から見られています。その小さな従順を神はよしとし、十の町の支配権まで与えるというのです。

 

 しかし、次の僕は、返事が違いました。稼いだのは5ムナに過ぎない、というのです。

 それでも、100万円を500万円に増やしたというのであれば、よい儲けであったのではないか、と思います。主人は、5つの町を治めるように、この僕に告げます。

 3人目の僕は、1ムナをそのまま布に包んで隠しておいた、と報告します。主人が恐ろしく取り立てを行うからだ、とまで言い訳をします。

 これに対して主人は、神は厳しいというそのことのゆえに、この僕に神の審きを即刻受けさせることになります。

 そもそも土の中に埋めるのでもなしに、満足な保管をも試みていない僕です。

 さらに、銀行にでも預けるならば、利息でもついただろうに、と語らしめています。せめて銀行にでも預けていれば、利子が得られたではないか、とはっきり叱ります。

 この僕に与えられていた1ムナは、先に設けて褒められた僕などに分配されることとなりました。

 

 ところが、すでに金を沢山もうけている人に、さらに従順でなかったメンバーたちに貸与されたムナたちが重ねて与えられるというのですから、羨ましい気もします。それはおかしくはありませんか、と主人に意見しました。すでに十ムナを儲けた者に対して、元手もすべて失った者がせっかく手元に所有している1ムナを、差し出さなければならないのはどうしてなのですか、と。

 持っている者がさらに豊かになり、持たない者――あるいは持とうとしない者――が取り上げられてしまう。それは、バランスを欠いたような裁きであると共に、福音に基づく意味での新しい信仰のバランスが満たされた裁きとなることが、改めて確認されます。

 

 このたとえの最後には、それまでの信仰を量る内容とは一転して、敵どもを目の前で撃ち殺せ、という恐ろしい命令が下されます。それでたとえが終わるのです。

 ぶどう園の農夫たちを殺したルカ20章のたとえでも、農夫たちは殺せと命じられますが、こちらは、ぶどう園の主人の愛する息子を殺していますから、私たちには理解しやすいところがあります。しかし、今回は、この主人を王と認めることを拒んだだけであり、それが、主人がいざ王の位に就いたゆえに、殺されなければならないのか、というのは、現代的には理解しづらいところがあります。

 もちろん、王なるイエスを否んだことは「敵」として退けられることでよいのでしょうが、この解釈がユダヤ人たちをその後の歴史で窮地に追い込んだことも認めなければなりません。

 エルサレムに近づいたイエスはこの後、エルサレムの平和を思いつつそうでない現実を嘆き、神殿から商人を追い払い、幾多の論争を交えた後、逮捕から裁判、十字架へと展開が加速していきます。

 それは同時に、救いの完成へと近づいたことでもありました。

 

 教会としての新しい歩みが始まってからの十年は、まるで信徒各自が1ムナずつ与えられて、今後のために用いよ、と命じられたことと重なるような気がします。

 教会となって初めの1から、それは十にまで達しました。小さな事に忠実に仕えることができるように、導いてくださった神の恵みです。神は十の町を与えるかのように、大いなる恵みも添えてくださいました。いえ、まだそれは与えられていないと見るべきでしょう。これから、町が増えていきます。福音の薫り漂う空が広がっていくことになるでしょう。

 これからの時代には困難も控えているかと思いますが、神は、より忠実に僕としての働きを全うするように期待しておられるようにも、感じられてなりません。


Takapan
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