預言者の小さな幻が集まって

チア・シード

ゼファニヤ3:8-10   


預言者は、しばしばエルサレムへの裁きを、復興をセットにして語ります。主からの背反は、裁かれなければなりません。しかし直ちに滅亡すると決まりはしません。その生命は回復されます。この構図は、新約の福音とパラレルです。人はその罪の故に裁かれねばなりませんが、滅亡を免れることとなりました。キリストが滅びを担ったからです。
 
キリストに背負われた人間の罪は、処罰をその人間が受けなくて済むようになりました。そのキリストも復活され、人もまた復活の命に生かされます。生命が回復されるのです。けれども罪は徹底的に処分されねばなりません。選ばれたイスラエルには、イスラエルに神の裁きを教える周辺諸国の異邦の民がいます。神がイスラエルのために備えたのです。
 
しかし彼らとて、ただ終わりなのではありません。共に裁かれねばなりません。それは悪事なのです。だからイスラエルよ、主を待つのだ。主は、必ずイスラエルに利をもたらすでしょう。他の国々を悉く集め、主の怒りをそこに注ぐことにするからです。人間はすべて神の前に一度死なねばなりません。でもそれは一つの始まりです。「もろもろの民に清い唇を与える」からです。主の名を呼び、神を信ずるようになるのです。
 
「一つになって主に仕えるようになる」という確かな預言がここに刻まれます。ゼファニヤ書は、幾度かクシュに言及します。人間的なつながりが預言者にあったのでしょうか。世界の果ての一つがクシュであったとも考えられます。その向こうからも、主を礼拝する者、かつて散らされてそこへ追われた者も、献げ物を手に手にやって来るといいます。
 
もう、イスラエルには敵がいません。敵であった者も、一つの民となって主の許に集います。夢のような光景です。確かにそれを幻です。預言者の一人ひとりは、そうした信じられないような素晴らしい幻を見せられて、驚きながら言葉を綴りました。それらが集まって、聖書という形で、壮大な織物が織り上げられていったのです。


Takapan
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