律法再来に一つの肩となる
チア・シード
ゼファニヤ3:8-10
「ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代に、クシの子ゼファニヤに臨んだ主の言葉」(1:1)がここにあります。善き王であったヒゼキヤは、イザヤの預言の中核に位置していましたが、その子マナセはよろしくありませんでした。マナセの孫ヨシヤは、8歳で王位に就きました。このとき大祭司ヒルキヤにより、神殿から律法の書が見つかったとされています。
律法がイスラエルの民にもたらされた事件です。ゼファニヤの預言は、その時代に現れました。エルサレムの信仰を徹底的に批判するのです。但し、その中から復興は確かに始まります。「あなたの神である主はあなたのただ中におられ/救いをもたらす勇者である」(3:17)のであり、エルサレムには「喜びの歌」(3:17)が湧き起こるのだ、と告げます。
裁きは、エルサレムにのみ向けられるのではありません。全地へ、主の燃える怒りが注がれるのです。それは「妬みの火」です。しかし、滅びに終わるものではありません。諸国民に「清い唇を授ける」主によって、人々は「主の名を呼び/一つになって主に仕えるようになる」のだそうです。この「一つに」なるというところに、注釈が付けられています。
「一つの肩になって」が直訳だというのです。壮大な幻です。人間の肩は、その上に頭を有っています。知と心の源泉である頭脳を支える基盤のようなものとして、肩が備わっています。人々が、そういう肩になるというのです。その中には、「かつて私に散らされた民」もいます。それが「私を礼拝する者」となるのです。主に仕えるようになるのです。
そしてここから、イスラエルの回復が豊かに語られるようになります。その幻が実現します。そのため「私を待て」と主が言います。何を待つのか。「私が証人として立つ日を」です。人の悪が満ちてくるその中で、主が結末を定め、もたらします。ヨシヤ王の律法が明確になった時代、主の律法に立ち帰る預言が、こうして告げられました。