主の名を呼ぶ唇の清き民

チア・シード

ゼファニヤ3:8-10   


預言者ゼファニヤは、ヒゼキヤ王の子孫であるらしい。祭司なのでしょうか。エルサレムについて憂い、警告を与えつつ、その回復を考えています。ヨシヤの宗教改革の頃の話だとこの書自らが語っていますから、紀元前7世紀に活動したものと考えられます。しかし捕囚期のエルサレムの惨状を描いたとすれば、時代設定を変えて発言させているのかもしれません。
 
目も当てられぬ惨状のエルサレムの、そしてそのときいろいろな国民が主の名を呼ぶ幻を見ます。名を呼ぶというのは、創世記からある表現ですが、神への向かい方を表していると思われます。神への信を表す、重要な好意です。異邦人を含め、世界の果てまでも人間が皆、この主の名を呼ぶというのです。
 
クシュ川はアフリカにあり、エチオピアあたりを見ておくとよいでしょうが、恐らく当時、その向こうへは誰も行ったことがなく、地の果てと考えられていたのでしょう。たとえバベルの塔以来地の果てまで人間が散らされていようとも、いずれ主のもとに帰ってくる。想像の主を礼拝することのほか、人間に戻ってくるところなどありません。
 
主の名を呼ぶとき民の唇は清められます。清くなるためには、神のほうが授けるという段取りが必要です。人間の側で人間を清くすることなどできません。だから、この日を待て。待つがよい。私たちにできることは、ただ待つことだけ。その待つ私たちが目撃するのは、主がすべての国民を集める様子。それは裁きのためでした。
 
つまりは神に逆らう者たちが裁かれるということです。妬みの火で焼き尽くすと主は言います。他の神々に仕えることを妬むと言っているのでしょうか。結局は、人間が自分の腹に仕え自らを神としている、そんな者たちです。神は何を悪とするのか。憎むのか。あらゆる悪を起こす基底にあるものを見据えて言うので、私たちは逃れられません。
 
裁きのためには、複数の証人が必要でした。しかし主は、たったひとりでも証人として立つことができるといいます。それはまさか、イエスと共に二人の証人が成立したとでもいうのでしょうか。どうであれ、絶対者としての神は、私たち人間の思いつく論理に制限されることはないでしょう。逆に言うと、私たちが神を規定することはできないのです。
 
主の名を呼ぶ清い唇の民でありますように。そうすれば皆、一つとなります。一つとしてカウントされないというのです。もはやバラバラ好き勝手に活動するのではありません。そして一つとなって主の前に跪きます。主に仕える僕となります。主のみを礼拝する民族の姿を幻想します。ゼファニヤは、ユダの民にそうなってほしかったのでしょう。


Takapan
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