裁きと救い

チア・シード

ゼファニヤ3:8-13   


人間の悪を悉く指摘する預言者ゼファニヤ。その素性はよく分かりません。由緒ある家の祭司ではとも目されていますが、確証はありません。神に従わない人間たちがすべて裁きに遭うことを突きつけます。どこかエリート的な眼差しも感じさせます。どこか高いところから、イスラエルの周辺諸国に対して裁きを宣言しているようにも見えるからです。
 
結局エルサレムのことが言いたいのだとは思うのですが、その前にまず周辺諸国を片づけます。それらの悪は問題外なのです。神は鉄槌を送るだろう、炎で燃やし、押しつぶすのだ、と息巻いています。それは、黙示録のヒステリックな描写にも似ています。神を知らぬ国々は、やはり無条件で悪なのです。
 
けれども、言葉尻を取らないように注意するならば、それらの国の中に、残された国民がいて、神の前に跪くことも告げられます。滅ぼし尽くそうが焼き尽くそうが、それは国なのであって、主の民となる者が残っているというのです。清い唇を主から与えられ、主の名を唱え、一つとなり、そして主に仕えることになります。名を唱えるというのは、いわゆる主の名を呼ぶということです。
 
名は体を表す、と言われます。主の御名を呼ぶというとき、これは人間の思いを神にぶつけるというようなものではありません。人はそもそも神に呼びかけられているものです。教会とは呼びかけられ、呼び出された者らという意味合いの言葉です。呼び集められた者たちが、その神の呼びかけに応えたレスポンスが、主の名を呼ぶということです。
 
世界の果てと考えられていたであろうエチオピアの彼方からも、主に従う者が仕えに来ます。主の支配は全世界に及ぶのです。神の国は、境界線など設けません。かつての悪はその日からのことに影響を与えず、もはや傲慢を示すことはありません。苦しめられ、卑しめられていた民こそが、このように救われます。もはや主の名にすがるしか、生きていく場所をもたない民が、主に呼ばれ、主を呼ぶのです。
 
単なる幻のようにすら見える描写ですが、よく読むと、驚くほどクリスチャンの置かれた立場を代弁しているように思えてきます。この後、娘シオンを主は喜び、愛により新たにすると預言されます。その中に主がおられるというので、そこにインマヌエルの恵みすら私たちは感じます。あの殺伐とした描写とは異なる情景が浮かび上がり、この書を終えることになります。神は審きの厳しさを告げると共に、救いの道を備えていることに、改めて気づかされます。


Takapan
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