主の日の向こうに

チア・シード

ゼファニヤ1:14-16    


現実の世界に嫌気が差すことがあります。どうしてこうなるんだ。なんとかならないのか。政治も、社会問題も、疫病も、経済状態も、教育の現場も。不満を有したところで、何がどう変わるという訳でもありません。でも、本当でしょうか。本当に、なすすべがないのでしょうか。政治の悪さを口にして憂さ晴らしをしているだけではないのでしょうか。
 
文句を言うことで気が晴れるということのほかに、自分が正しいのだと示したい潜在意識があるのでは、と感じます。ゼファニヤが実際どういうところに立ち、何を観ていたのかはよく分かりません。列王の時代の想定となっていますが、捕囚を知っている者の筆によるのではないか、とも目されています。どちらであっても構いません。
 
預言者が、エルサレムのあの荒廃を見て、過去に遡り告げていたとしても、目の前に起こったことが「主の日」と思って記したにも拘わらず、その「主の日」はその後二千数百年を経た私たちのために備えられた「主の日」であってよいからです。今もなお主の大いなる日が近づいている、と認識できます。迫り来るその日は速やかに来ます。
 
時計による計測で数えられる数字の問題ではありません。己れを世界の外に置き、安心を自分で決めたような者を主の日が襲うとき、その者はとてつもなく速いと感じるものなのでしょう。その時、自ら勇士だと誇っていても、それが空しいことを痛感します。人の力は、どんなに相対的に強いように思えても、主の前には実に無力なものなのです。
 
随分と悲観的なことばかりここに並べられているように感じられようと、そしてゼファニヤがこの預言の書で延々と、愚かな国の末期を残酷に並べようとも、これを超える存在を私たちは知っています。つまり、体験しています。主は怒りの日をもたらしますが、その向こうに何があるのか、について、新約時代の私たちは、実は知っています。
 
その怒りがいったいどこへぶつけられたのか。何を私たちが本当に見なければならなかったのか。ここに、悲痛に満ちた声がありました。イエスは十字架の上で、主の怒りをすべて身に受けました。辱められ、弄ばれて、精神的にも肉体的にも踏みにじられ、絶叫する仕度が調えられました。主の怒りの向こうにあったのは、十字架でした。


Takapan
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