人を生かす一句の力
チア・シード
ゼカリヤ9:9-10
聖書は、一句だけを取りだして解釈してしまう、ということを避けるべきです。文脈を離れて、言葉尻だけで恣意的に意味を読み取り、こういう意味だと決めつけてはならないはずです。時にそれは危険なことにもなるでしょう。でも、人は突然、一つの句によって光が射すのを体験することがあります。聖書の文脈とは関係なく、命が与えられるのです。
その人の置かれた立場や、その情況にぴたっとはまるような、そしてその人を助け起こすような言葉として、聖書のその言葉が入ってきます。そこに理屈は必要ありません。ゼカリヤの予言には、ゼカリヤなりの論理があります。平和の王なるものがどんな誰の姿を想定しているか、それなりの答えはあるでしょう。が、何か思い込んだ人がいます。
イエス・キリストの弟子たち、そして教会は、ゼカリヤの放った表現を、イエスの姿を完全に表すものとして見ました。「娘シオンよ、大いに喜べ」とは、エルサレムでイエスを迎えた群衆の姿です。「あなたの王があなたのところに来る」とは、正にイエスのことに外なりません。「正しき者」「勝利を得る者」という表現も確かにイエスのことでしょう。
さらに「へりくだって、ろばに乗って来る」のは、福音書記者たちの誰もが賛同しています。キリスト者は、旧約を実に自分本位で引用し、解釈したといえるでしょう。そしてイエスは、この直後のゼカリヤの言葉を体現していたということをおのめかしてもいました。戦車や軍馬、そして戦いの弓を絶ち、「この方は諸国民に平和を告げる」というのです。
その支配は、遙かな海へ、地の果てにまで至るというから、平和がこの世界の全てに行き渡ることを伝えています。イエスは平和をもたらしました。その十字架により人は神と和解させられました。平和は全世界へ拡がりました。さて、そのイエスを拝する教会は、平和の実現に貢献したでしょうか。歴史はその逆を生み、今も誤っていはしないでしょうか。