平和をもたらす王

チア・シード

ゼカリヤ9:9-10   


周辺諸国への裁きと比較対照するかのようにして、エルサレムが力を以て立ち上がるための根拠を示しつつ、そこに王が到来することを高らかに謳います。エルサレムに王が来る。イエスが入城するときに、この場面が重ねられたことはキリスト者は皆知っています。まことに相応しい、旧約の残像です。ろばに乗る着想をイエスはここから得たのでしょう。
 
ゼカリヤは、実在の王に期待を寄せて、この預言を書いたとも解釈されています。それが救い主であるという期待をこめたという理解ですが、ここで「ろば」がやはり気になります。ヘブル語で「イール」というそれの関連語は、人の目を見えなくする意味と、目を覚ます意味とを併せ持つと言われています。ここで人は2つに分けられるのです。
 
この王は平和を告げます。ところが直前まで、主が諸国民を裁き罰することを重ねて告げていたのでした。だのに、王が同じ諸国民に平和を告げるというのはどういうわけでしょう。海から海、地の果てにまで至るその支配は、周辺を制圧してこそなされるのではないでしょうか。それはいわば暴力によるものなのではないでしょうか。
 
そう。ここで私たちは「平和」の概念について気づかなくてはなりません。何事も起こらない穏やかな田園風景を想定しているのではないのです。力を以て、争いと犠牲の向こうに始めて見える、労して獲得するものとしてこそ、平和というものは考えられているのです。エルサレムの歴史は、ゼカリヤの預言の後も血と戦いに染まり、現代もなお続いています。
 
同じ概念の下で力により支配して平和をもたらすという考えを人間は今も実行しています。欧米の政治もこれによっています。自然と一体となるといった、何事もない傍観的平穏とは違うのです。しかしこの東洋的平和も、敵なる人間に対しては実に残虐です。人間にとり自ら平和は、画に描いたような理念としては叶えられないものなのかもしれません。
 
努めて得ようとするものとしての平和は、その努力を人間に対して促すという意味では、まずは受け容れやすいかと思います。また、ここで王がすると約束するように、戦車や軍馬、弓が断たれるというのなら、その姿は歓迎したいものです。この王なるものは果たして人間なのでしょうか。ただ王ではなく、イエス・キリストにこそ、私たちはそれを見るのです。


Takapan
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