預言者は平和を告げる

チア・シード

ゼカリヤ9:9-10   


新たな約束が与えられる。旧約聖書では珍しいことではありません。もう幾度、こうして神はイスラエルと契約を変更あるいは更新してきたことでしょう。裏切るのは常に人間の側でした。人は信実を尽くすことができません。神に背き、自分の腹に仕えることへと向かうばかりです。
 
偶像と私たちは口にしますが、己の腹を神としているということがその根本にありはしないかと思わされます。自分の力や策略で自分を救おうとしているのです。交通の要所にあるイスラエルは、大国の気紛れにしばしば翻弄され、国の運命を左右されてきました。戦争は、自分の計算どおりに結果するものではありません。ただ勝った者が正義となり、歴史に名を残します。「勝てば官軍」とはよく言ったものです。
 
主なる神がすべての歴史を牛耳る中で、預言者はその主の言葉を代弁します。預言者についてのこの立ち位置は重要です。それは神の言葉なのか、人の言葉なのか。ゼカリヤはバビロンを恐らく知っています。「主は覚えている」というその名のままに、帰還の民へ、かつての主の導きを覚え、告げ知らせるはたらきをもなします。神の言葉を伝えます。
 
シオンの都、エルサレムは、喜び躍る。ここに王が来る。新約の記者はキリストのエルサレム入城のテーマをここに見出しました。勝利の凱旋の姿は、誇らしげな馬ではありません。子ろばに乗るという、柔和で身を近くする姿を私たちに見せてくれます。あらゆる武力、軍力はもはや不要です。平和が宣言され、戦うことはもうしなくてよいというのです。
 
世界のすべてに主の権威が及びます。ゼカリヤはその幻を高らかに告げます。核の抑止力というものを信仰している人々がいますが、まるで偶像を信仰しているようなものでしょう。旧約聖書の平和は、核抑止という幻影をきっぱり否定します。イスラエルの平和を、私たちはもっと現代的に主張し、適用してよいのではないでしょうか。
 
もちろん、国際法上のイスラエル国が平和の中心であるかどうか、ということとは無関係です。何を以て平和と称するか、検討しなければなりません。神の言葉と、人の思惑との区別の見極めが必要です。平和を実現する神の子を、ローマ皇帝の中に探しても仕方がないのです。


Takapan
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