平和に参与せよ

チア・シード

ゼカリヤ8:9-17   


勇気を出せ。平和を作り出せ。きっと平和がくるから。平和は、何もせずじっと待っていて与えられることを期待すべきものではありません。また、何もせずにすでに与えられていて当たり前だと思うべきものでもありません。ところがまた、自分がなんとしても平和を作るのだと躍起にななって走り回ることでもないのです。
 
主が平和をもたらすのだから私たちは手をこまぬいて眺めていればよい、というのが信仰であるようにも思えません。いま預言者ゼカリヤの目の前にいるユダヤの民は、神殿再建こそが平和の樹立そのものであると信じています。再建には困難を窮めていました。的の妨害もあったし、経済的な困難もあって、見通しが利かない状態でした。
 
頼りにするものは、預言者の口を通して与えられる神の意志のメッセージ。少なくともゼカリヤはそう信じています。平和がもたらされるのだ、というその声に、私たちも期待しましょう。勇気を出せ、と再三呼びかけられているのです。立ち上がり、前進することができたら、まずはそれでよいではありませんか。
 
あの先祖たちが主を怒らせた記録を、私たちも見ます。これは教訓となります。主もそのことを忘れているわけではないのです。けれども主は、再び幸いを与えようと臨んでいるのだという慰めをゼカリヤは与えます。この信があれば、私たちは恐れることはありません。不安がる必要もありません。
 
ただそのためには、私たちにも一定の義務があります。互いに真実を語ること。私たちの政治的営みの中で、真実と平和の限りを尽くすことです。私たちの側でも、可能な限り平和を作り出そうとする努力が必要です。互いに心の中で、表向きがどうであれ、悪を企んでいるようであってはならないのです。
 
口先で誓っても、心の中は偽りだらけであってよいわけがありません。主はそうしたものを憎みます。ゼカリヤは明確にそれを示します。これが信仰の回復をもし図る預言だとすれば、正に現在のクリスチャンのためのものとなります。私たちが一般の国々に裁きを言い渡すのではありません。神を信じていると自称する者にこそ、裁きは突きつけられているのです。


Takapan
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