絶望への福音

チア・シード

ゼカリヤ8:7-9   


エルサレムは敵に踏みにじられ、荒れ果てたままとなっていました。傷つき、疲れ、見る影もない、どうしようもなく破壊され誰も建て直すようなことを考えもできない状態でした。おもだった知恵ある人々は、遠くバビロンへ連れ去られ、弱い者しか残されていません。そこへ、人々が戻ってきてエルサレムが生き返る、復活すると叫ぶのは勇気が必要です。
 
いや、それは途方もない夢物語でしかありません。たとえゼカリヤ書が成立したのが後代であったにせよ、このような信仰を表立って打ち立てるのは、大変な責任の伴う、大きなことであったと思われます。この預言が与えられているということは、国が抑圧され目も当てられない姿になっていても希望を与えうるものとなります。
 
どうしてこの預言を今私たちが見ているのか。この問いを考えてみませんか。私たちも傷ついていませんか。惨めな姿を呈していませんか。不条理と自分が思う事態に苦しめられていませんか。あるいは、自分の判断が招いた苦境に陥っていませんか。神を呪いたくなるような出来事が身の上に降りかかってきていると感じていませんか。
 
そのような苦しみを覚えていてもなお、神を見上げ、奇蹟のような現実を願い求めることができるのかどうか、ここから考えてみたいと思います。暗闇としか思えないところへ光が射してくるような信仰、否闇しかそこにはないのに光を見る信仰が起こり、希望を抱くことができるというのは、どういうことなのでしょうか。ありえないことなのでしょうか。
 
主と民との関係が確立し、預言者の言葉を握り締め立ち上がる。神殿再建へのスタートがあるとが、祈りと礼拝のリスタートがあるということだとすると、私たちはいつからでもどこからでも、立ち直ることができるということです。聖書の言葉は、絶望の中にあるような自分に投げかけられる福音となるのです。


Takapan
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