神の忍耐

チア・シード

ゼカリヤ8:1-8   


荒廃したエルサレムしか見えない。エルサレムとはこういうものだという即物的な姿のみを感覚している。いや、かつてはイスラエルにこの町の美しい形があって、神の祝福を受け栄華を誇っていたことは聞き知っています。神に背を向け、お咎めを受けたというのですが、ダビデの故に、この町はまだなんとか息を保っていたと理解しています。
 
あのように、再びエルサレムが再現されることを、預言者は望んでいます。いや、主が望んでいます。預言者はそう言います。万軍の主、あらゆる戦いに勝利して力を発揮する者たる名を示しつつ語るその幻を、ゼカリヤは力強く告げます。このエルサレムにこそ主ありなのです。そこは真実の町、聖なる山だと称されます。
 
老人から子どもまで弱いとされる人々が集まり、平和な日常を呈することでしょう。それは如何にも不思議であり得ないことのようですが、全く当たり前のことだと神は喜んでいます。散らされて不遇な目に遭っているイスラエルの民を呼び起こし、このエルサレムの町に住まわせて、神と人との信実の関係を築くというのです。
 
このように「関係」という捉え方はとても大切です。もっと注目されるべきだと考えます。正に信頼関係、これこそが必要なものの第一なのです。すべては信頼関係を基礎に始まります。私たちは、信頼の上に互いの関係が結ばれているという現象を思い起こします。働けば報酬がもらえ、走る車は自分を轢かない、家族は寝ている自分を殺しはしない。
 
ごく稀に、この信頼関係が崩されることがあり、大きなニュースとなりますが、珍しいからニュースとなるのです。しかしその一つの暴力が、互いに不信感を増すということはあります。世界の信頼関係を疑わせ、あるいは突き崩す行為は実に大きな罪であると言わざるをえません。カントも嘘という小さなことの中にその影響を見ていたのです。
 
しかし神は人間にその信頼関係を裏切られ続けました。なんと神は不当にも、不条理仁も、忍耐深くあることでしょう。ホセアに体験させたどころの話ではありません。人間に裏切られ続けてなおエルサレムを約束しています。この後ついにイエス・キリストを贈ります。人間は一体これまで何をしてきたのでしょう。これから何をするというのでしょう。


Takapan
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