反面教師

チア・シード

ゼカリヤ1:2-5   


旧約聖書はしばしば反面教師となります。聖なる神を主人公とする壮大なストーリーは、人間の小ささと醜さを描いて描いて描き尽くします。あらゆる悪のカタログであるかのようです。主はこうした人々の行いに関して、かつて厳しい対処をしました。大洪水も起こすし、大帝国を用いて国を破滅させ、民を散り散りにしたこともありました。
 
必要なのは、神と人との間の適切な関係であること、そして大切なものは人の幸せであること、こうしたことを神は教えようとした、と私たちは理解しています。聖書の世界は、これを教えようとしてきたと読むのです。但し、古来個人というよりは、民族集団として、イスラエルの民と神との関係という注目の仕方がなされていたように思われます。
 
ゼカリヤがどういう人物かについては推測ではありますが、祭司家系の人物であろうと考えられています。そういう立場だからこそ、対局に立ったものの見方ができるのかもしれないし、イスラエルの歴史についても洞察ができたのかもしれません。あの先祖たちのようであってはならない。先祖という反面教師を立てるのです。
 
過去の歴史の出来事は、結果が出ています。それで評価が分かりやすいものです。今起きていることについては、これからそれがどうなるのかを知りません。意見が分かれ対立するでしょうが、その価値を結果から決めることはできません。でも過去の出来事なら、その行く先が判明しています。あれは良かった、悪かったと今判断ができるのです。
 
これは強みですが、そのため私たちが、過去に対して優越しているかのような錯覚を懐くことがあります。傲慢になることがあります。決して過去の人々よりいまの自分たちが優れているのではないのです。ただ単に、時間順の問題として、過去の成果を私たちが知っているだけの話であって、私たちの行為の結果も、将来評価されることになるというだけです。
 
だから言う。先祖のようであってはならない、と。立ち帰れ。預言者のメッセージはこれに尽きます。主に立ち帰れ。同じことをあの先祖たちにも、主は預言者を遣わして聞かせました。でも、聞かれませんでした。それでああなってしまったのです。おまえたちは、つまりこの私はどうするのか、と今問われています。
 
あなたはどこにいるのか。要するにいつでもこれが神の前に問われているのです。それに先立って、主はあの先祖たちは今どこにいるのか、と私たちに向かって問うています。答えは何でしょう。「もうあの先祖たちはいません」なのか。「あの先祖たちは主に滅ぼされていなくなりました」と答えるのが適切なのでしょうか。
 
いや、「おまえが今、かつてのあの先祖たちと同じことをしているではないか」と突きつけられているのでしょうか。「だから先祖たちの歴史記録をよく知り、それを反面教師としなさい」と言われていることになるのでしょうか。今ここにいる私が、立ち帰らないあの先祖たちの姿のまま、ここにいる、ということになりはしないか、考えましょう。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります