戦いというメタファーはいま

チア・シード

ゼカリヤ10:1-12   


本当にこれが神の意図なのでしょうか。人が想定したイメージを重ねているだけなのでしょうか。民族の回復は、戦いの形で私たちに示されました。やはり終末の出来事となると、どうしても戦いにならざるをえないのでしょうか。古くから疑問に思う人が少なからずいたこの問題を、いま改めて問うてみたいと思います。
 
豊かな自然の力が恵みを与え、占いが人々にとり無益であることを告げたまではよかったのですが、あるいはイスラエルの民のリーダーがふがいないことを突きつけたのも当然だったと言えるのですが、ユダの家が軍と兵士になぞらえられてしまい、これが続くというのを見て、ふと思う。人は、戦うしかないのでしょうか。
 
主の名は万軍の主とも呼ばれます。勝利しなくてはならない神。悪の力、人間の内から湧き起こるようなどうしようもない罪の力と、戦わなくてならない、それは分かります。これを曖昧にするわけにはゆきません。だが、そのための備え、また与えられた力というのが、どうしても戦場でしかないというのは、旧約の常識に過ぎないのかもしれませんと。
 
今もなお、私たちはその頃と同じようにこれを心に受け止め、刻まなければならないのでしょうか。ゼカリヤは、この勇士のイメージを以て、ひとに神の救いの力を示しました。それにはもちろん意義がありました。当時はそれが救いの実体的な形でありました。いま私たちは、この戦いのメタファーをどう受け止めるべきなのでしょうか。
 
人間は、戦いという言葉で地球を死の星にするような力を有してしまいました。さあ戦うという勢いが、一発で決着の付く滅亡をもたらすことも現実的なのです。ゼカリヤが、神の救いについて、弓であり軍馬であるなどという悠長なことを言っているのは、いったい何の説得力のあるメッセージとなるのか、大いに疑問です。
 
主によって強められても、私たちに、そして私に何ができるというのか。当時のゼカリヤの精一杯の想像がここにあったとしても、いま私たちの視座から見える風景に対して、この聖書の言葉がどのように生かされることになるのか、問いましょう。私たちはこれをどう受け止めて、何を見ればよいのか、教えてくださいと求めましょう。


Takapan
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