壊れていないか

チア・シード

テトス2:11-15   


救いをもたらす神の恵み。これを伝えるべく、テトスは立てられました。このテトスは固有名詞でありながら限定されず、私たちへの呼びかけとして受け止める必要があろうかと思います。これだけを見ると、キリスト教でなくても、信仰ということを持ち出す思想ではどこでも通用しそうです。敬虔に生きよ。これもまた、普通の忠告のように聞こえます。
 
この時代がどんなに毒されていようとも、この世の欲に呑み込まれることなかれ。尤もです。だが、キリストということを表に出すとあらば、それだけのものではなくなるでしょう。イエス・キリストの栄光の表れを待ち望む希望がそこに伴います。お伽噺ではありません。それはかつて歴史の中に起こったことであり、これからまた歴史の中で起こることなのです。
 
キリストが私たちのために犠牲になったではありませんか。その結果、私たちは不法から抜け出し、良い行いへと導かれたのです。宗教が善人を生むというのは当たり前のようですが、そこは眉唾ものとしなければなりません。他人がそう思うのは自由ですが、えてして自分でそう思い込み、傲慢になっていく姿を、どれくらいこれまで目の当たりにしたことでしょう。
 
但し、他人に対してそのように突きつけてしまうのは、実は自分が悪であることを晒すことにもなります。ここは自ら点検がまだ可能になる領域だとすべきでしょう。しかし自分で自分を良くするというのは難を極めます。清めるはたらきは神の領域なのです。このようなことを適切に仕方で伝えること、そこに伝道者としてのはたらきがあります。
 
テトスはパウロの後継者でしょうが、私たちもそれは同じです。でも私たち一人ひとりが皆テトスなのでしょうか。プロテスタントの万人祭司のスローガンだとそうなります。そうでもよいですが、オピニオンリーダーがこのベースを忘れていないかを見張ることも私たちに課せられた役目です。ここのところが崩れているように私は思えて仕方がないからです。


Takapan
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