五感を使い五感を超えて

チア・シード

雅歌2:11-17   


そのまま愛の歌としても楽しめるし、何か深い象徴的な意味を宿していると構えても読める雅歌。その一般的な研究はさておき、せっかくこうして与えられた聖書としての美しい歌を、私の外からの声として喜びたいと思います。女は愛する人の声を聞きました。外から女の内を覗いています。神からの視線をどうしても覚えますが、急がないようにしましょう。
 
さあ、冬が去り、春が来ました。地に咲く花が視覚的に確認できます。小鳥の歌は聴覚を刺激します。山鳩の声もそうです。そこへいちじくの実が熟したため、味覚の要素が加わります。さらにぶどうの花が香るとこれは嗅覚です。やがて女は、これらの感覚の極みとして触覚により恋人の愛撫を受け、五感の喜びを体験することになるでしょう。
 
人間のすべての感覚を満たす形で迫ってくるこの情景が、第六の感覚としての霊感を無視しているとは思えません。それが私の解釈であり、願いです。この恋人はしきりに近づいてくるのだと描写されます。どきどきします。わくわくします。私たちはこの女の身になって、恋人を待つのです。さて、この恋人とはどういう方でしょう。
 
さあ、私たちは、苟も聖書の中にこれを読んでいます。今は視覚で追っているでしょうか。できれば聴覚的な味わいたいものです。おや、味わうという味覚のメタファーを思わず使ってしまいました。手話ではこれを「経験する」と表現します。手話は音声に頼らない言語です。ならば聞くということも、音声に限定される必要はないでしょう。
 
どの感覚でも、外からの刺激を感覚するという形で、自分の内から生まれるものではないものを受容します。その中で盛んにここで使われる「聞く」という要素は、「言うことを聞く」のように自らがそれに従うという意思を含んでいると言えます。女はただわくわく春を感じるのみならず、外からそれを受け取ります。
 
私たちは神からのアプローチを覚え、それを喜びます。一方的に女が男の背を追いかけて傷つく様子は、偶像を空しく追うものと見なされますが、これは相手から自分を探して向かってくる描写です。生ける神は愛を以て私の名を呼び、求め、近づいてきます。与えられた恵みを喜び、愛するひとを待つ女の身になって、わくわくする気持ちになりませんか。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります