妄想か信仰か

チア・シード

雅歌2:10-17   


雅歌は謎の書です。聖書の中に異彩を放っています。理屈がありません。「神」も登場しません。訳出も困難を窮めます。この数十年、日本聖書協会の聖書は、小見出しを付けていますが、果たして雅歌についてはその小見出しが適切であるかどうか、よく分かりません。男の若者とおとめの歌でよいのかどうか。おとめたち、とあるのは本当なのか。
 
学者たちの研究に任せるしかないのですが、定説も怪しいものです。初めのうちは、一人のおとめと若者との心の内が多く示されています。初めから二人は、互いに愛を覚えており、恋人として認識しています。いま切り取られた場面は、おとめが、相手の言葉を語っている点で珍しく見えます。「私の愛する人は語りかけて言います」と始まりました。
 
そこから五つの節にわたって、若者がおとめ自身に向かって言う言葉を記します。これは、おとめの心の内の想像であるようにも聞こえます。恋すると、ひとは妄想の物語を造り上げがちです。恋する者は、相手が自分にどのようなことを告げるか分からないので、巧みに妄想を繰り広げるのです。自分勝手な恋愛ストーリーを思い描き、悦に入ります。
 
ここもそうなのでしょうか。それとも、たとえば前回の逢瀬のときにそう言われた言葉を反芻しているのでしょうか。あるいはこれはラブレターなのかもしれません。「恋人よ」「美しい人よ」と自分は呼ばれ、春の季節となったことを告げられると、野に誘われています。隠れている鳩におとめを擬え、「姿を見せてください」と願っています。
 
「声を聞かせてください」と呼びかける若者に対して、おとめが頼むのは、「ぶどう畑を荒らす小さなジャッカル」を捕まえてほしい、ということでした。二人の関係を怖そうとする者がいる、ということでしょうか。二人は「花盛り」と称するほど、求め合い、愛の成就を確実にしているのですが、その二人を邪魔する者がいるのでしょうか。
 
たとえいても、「愛するあの方は私のもの」であり、自分も「あの方のもの」だときっぱりと言います。「愛する人よ」とおとめは呼び、「戻ってきてください」と強く願っています。これは、ユダヤ教側で議論の末、聖書に入れられた文書であるといいます。しかし、こじつけかもしれませんが、キリストと教会を示すようにいま受け継がれています。



Takapan
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