購い主

チア・シード

ルツ4:13-17   


ルツにボアズが現れ、姑ナオミの家系は絶えることがなくなりました。いま男の子が産まれたのです。周りの女たちはこのことを祝し、ナオミと共に喜んでいます。このような女たちの習慣は当時当たり前のものだったのでしょうか。子が産まれるというのはこの上ない祝福であり、女としての幸福そのものと考えられていたと思われます。素直にそう捉えましょう。
 
ボアズはこのとき、「家を絶やさぬ責任のある人」と称されています。聖書協会共同訳では「家系を絶やさぬ責任のある親戚」と、さらに説明が詳しくなっています。しかしこれは説明的翻訳で、言語は実に短い「ガアル」一言で終わっており、恐らく血筋を伴う購う者を指す言葉です。買い戻す者であり、そのためにボアズは親戚とひと問答行ったのでした。
 
フランシスコ会訳は「あなたを救う者」と訳しています。ただ「救う」としたのでは、ここでボアズが行った役割ないし使命がぼやかされてしまうような気がします。確かに買い戻したのであり、贖ったのです。正式な法的手続きを伴って、ルツを娶ったのでした。キリストが私たちをやはり法的に正式に買い戻したという意識を私たちも持ちたいものです。
 
男の子が産まれましたが、女たちは「今日、主は」と聖書協会共同訳は並べて掲げています。ヘブライ書を思い起こしますが、確かに今日主が現実の出来事として起こしてくださったことを受け止めたいと思います。キリストの受肉の記憶が重なりますが、むしろ購いの業を私たちはここに感じてもよいのではないでしょうか。
 
神の子の系譜がここに確認できます。アダムに始まる人間の系列の中、主に祝されたダビデの家系に、後にイエスが現れます。その上で、聖霊により宿ったというのですから、ただの人間ではない存在と見なされました。偉大なイスラエルの精神的祖であり支柱であるダビデへつながるここでの記事は、決して小さな扱いで終わるものではないと思われます。
 
ここでは、女たちがこの子にオベドと名付けています。名付けるとなると、どうしても父親がイメージされますし、イエスという名を受けたのもヨセフだったとマタイは記しています。ボアズは買い戻す役割を与えられましたが、名付けたのではありませんでした。女たちによる祝福の中で、ダビデの祖父になる人は名を与えられたのです。
 
イスラエルの中で、その子の名が高く尊く上げられますように。専らナオミばかりしか、女たちは見ていないようにも見えます。そしてナオミがしっかりとその子を抱き、養い育てたことまで記されています。私たちもオベドです。人々に祝され生を受け、名を与えられました。しかしまた、それは贖われた故の誕生でした。私たちは誰を生みましょうか


Takapan
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