反抗の中にある従順

チア・シード

ルツ1:14-18   


ナオミなりの思いやり。自分の神のもとに帰れ。ナオミはイスラエル人ですが、嫁たちはモアブ人でした。飢饉の故郷を出てモアブの地に逃げ、そこで息子たちの配偶者を得たのです。しかしナオミは夫と、息子たちを次々と喪いました。残った二人の嫁に、もう自分のそばにはいる必要がないと告げると、一人は去りましたが、一人は縋りました。
 
姑が権威をもっており、その命令がないと動けなかった故に、去ったオルパのほうも、言われてようやく去るという具合だったのかもしれませんが、ルツはこの権威に反抗しました。頑強に、決してナオミの傍を離れない、と言い張ったのです。この背きが、結局ダビデ王を生み出したのですから、歴史というか、神の計画はなんとも粋なものです。
 
イスラエルの栄光は、この女性の反抗に端を発したことになります。自分の神のもとへ帰るというのはあなたを見捨てることになる、とルツはナオミに答えます。この「あなた」とは誰か。もちろんナオミです。けれども、これはイスラエルの神のことだ、と構図の上では言えるように思えてなりません。ナオミに従うことは、この神に従うことなのです。
 
主の留まるところに自分も留まるばかりか、さらに「あなたの神」を求めていくあたりからすると、この「あなた」の中にキリストを見ることも可能ではないかと感じました。キリストという具体的な、人の形をとった方に背を向けるというのならば、様子を想像しやすくなります。キリストに従い行かんとする弟子たちの姿に重ねてみましょう。
 
パウロに促される信徒たちでもよいのです。キリストの民、つまり同胞を愛し、キリストの父なる神を仰ぐ人々です。キリストが死ぬところで私は死にたい。なんと深い救いのエッセンスへまで辿り着こうとしているのでしょう。私はキリストと共に死に、葬られました。そこからはキリストの命に生かされるという結果しか出て来ません。
 
この奥義の死に与れないとでも言うのなら、主の罰が下ることも当然、と見越しているかのようなルツの言葉。いや、こじつけめいていますが、私はそう感じました。ナオミはルツの信仰を解放しました。ナオミの許可が、歴史には必要でとした。キリストに従う信仰は、思いもよらぬ場合に、隠れて働くということが多々あることを改めて知ります。


Takapan
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