霊の執り成し故にすでに益
チア・シード
ローマ8:26-30
私たちは「霊の初穂を持っている。」(8:23)「子にしていただくこと、つまり、体の贖われることを」(8:23)忍耐して待ち望んでいます。しかも、私たちは弱いのです。助けが必要です。助け主が、その霊です。「霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださる」のです。「私たちはどう祈るべきかを知」らないからです。
祈りというと、美しい言葉で流暢に神との交流を示すようなものがよいように見えてしまいます。ふだんからああやって長い時間祈っているからこそ、教会でも祝詞のように立て板に水とばかりに祈り続けることができるのだろう、と羨ましくもなるし、もしかすると妬ましくもなるかもしれません。でも、そうでしょうか。
礼拝の中で祈りの担当になった人が原稿を用意してきて読み上げる、という形式の教会があります。プログラムを滞らせない配慮かもしれないが、美しいフレーズの言葉を使いたいからという可能性があります。呻いてよいのです。読むのではなくて、正に祈ればよいのです。「霊の思い」を神は知っており、霊がそれを執り成してくださるのです。
祈りは、それでよいと思うのです。霊はそのとき、「神の御心に従って」執り成しています。そして、そのように願うのがキリスト者でありましょう。「神を愛する者たち」とはそういう存在でよいのではないでしょうか。それは「ご計画に従って召された者」のことです。ここに、キリスト者を慰める、とても有名な言葉があります。
「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています」という言葉はよく覚えられており、よく頼りにされる言葉です。これを覚えて縋ります。「万事が共に働いて益となる」という部分を信じて、この試練もきっとよい結果になりますよ、と励ます人もいます。
でも、自分で忍耐するならともかく、他人に投げかけるのには私は疑問です。「ご計画に従って召された者」とは、「前もって知っておられた者たち」(8:29)であり、「あらかじめ定めた者たち」(8:30)であり、「義とした者」(8:30)なのです。神の選びの中にあること自体、すでに益です。限りない恵みと祝福を、もうすでに受けているはずなのです。