呻きあればこそ

チア・シード

ローマ8:26-30

ローマ

被造物が呻いている。パウロは、ここまで肉と霊、死と命との対比を述べ、また先の章では自分の中にどうしようもない罪への傾向性がありそこから逃れられないという嘆きや叫びを露わにしていました。そして、この人間の中に巣くう暗い影は、すべての被造物の呻きをももたらしているとさえ言いました。この世界の管理者として人間は、適切な役割を果たせなかったのです。
 
しかし、神はそこから抜け出す道を必ず用意してくださっている。この確信からパウロは外れることはありません。ただ、人もまた当然、この呻きの中にあります。いえ、人だからこそ、当然呻かなければならず、呻くしかないのです。この世は、呻きで満ちています。これがパウロの世界観でした。
 
驚くべきことに、神の霊もまた呻いていると言います。人にはたらきかける霊は神の息ですから万能か、確かに万能かもしれませんが、人と神との間をつなぐのは神の側が一方的にできることではないのです。人がその架けようとする橋を、拒みさえするからです。この霊は、自由を有しています。自由にはたらきます。それは人の自由を侵害はしません。人もまた、これを受ける受けないの自由を有しているので、人の選択や決断が人自身の運命を誘うことになります。
 
呻きは、もはや祈る言葉さえ見つからなくさせます。私たちの感覚では、自由さえ失っているかのようです。そこへ霊が、神と人との間をつなごうとはたらきかけます。そうしながら、霊は呻くのです。なんとその溝が遠く深いことか、人はなんと神の誘いかけにも反応しなくなっていることか、嘆き、呻くのです。こうして世は、あらゆる呻きに満ちています。死の原理が漂い、すべてを支配しようと襲ってきます。
 
パウロが半ばやけになりそうなほどに叫んだ7章の苦悩が、通奏低音のようにずっとここまで響いていることを感じ取りたいものです。しかし、神の摂理の中にあることに気づいた者、つまり神を信頼することに呼び導かれた者は、この呻きが向かう先、行く先をも信頼する心を与えられました。信頼し、忠実に従うとき、人は望みを抱いて歩み始め、歩み続けることができるようにされました。
 
キリスト者は、ただ信じて明るいだけ、そんなことはありません。苦難を身に受け、自らの中に神にどうしても従えないもどかしさを覚え、どうしようもない奴だと自分に絶望し、呻きます。怒りや哀しみを、どこへぶつけてよいか分からず、呻きます。しかし、それを打開する者が、人の外からはたらきかけます。それが神の霊です。
 
神は人の弱さをご存じです。キリストにおいて、人の弱さを表し示し、残酷な処罰を引き受けて、自ら痛みを味わうほどに、人を愛してくださいます。このキリストの呻きが、原理的に最初の呻きであったのだとパウロは気づきました。原理的にあるいは存在的に最初の呻きでした。人からみれば、時間的・認識的に、あの十字架の出来事の時に起こった、歴史の中のある一点であるかのように見えますが、神はそのような時間には縛られません。私たちの見る時間軸でのあの十字架の時以前にも、以後にも、すべてがその特異な出来事に支配されていくのです。
 
へたをすると、過去や未来ですら、人の目にそう感じられるひとつの枠でしかない、と捉えられないでしょうか。神は永遠を知る方です。永遠というのは、人間が閉じこめられている時間軸の中に納められる概念ではありません。それと対立するものでもありません。永遠はそれを超えています。その永遠からの破れにより、人の歴史の中に神が介入した十字架の出来事は、すべての時を、すべての歴史を支配しているに違いありません。
 
だから、十字架はいまも私の目の前にあります。いま私のためにイエスが死を味わった出来事が迫ります。問題は、私がその前でどう決断し、従うかということです。ただその出来事の現場に呼び出され、目撃した私が、それを証言していくかどうかです。私は呼び出され、救われ、すべての苦悩も呻きも超えた輝き喜ぶ光の中へと入れられました。もう案ずることはありません。そこに召されているからです。自分に絶望した呻きあるからこそ、この召しがあり、それに応じてキリストだけを見つめるとき、霊がはたらいていることを私たちは知るのです。


Takapan
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