アバと祈る

チア・シード

ローマ8:12-17   


神の霊に導かれるなら、そうした人々はなんと神の子だと言われます。肉の原理か霊の原理か、私たちが委ねるのはどちらの生き方であるべきかを問いかける中で、キリストにある者はもちろん後者に従わなければならないことは当然でしょう。でもそこを確かに押さえておかないと、ブレが出るかもしれません。
 
この神の子は「息子」という語です。相続の子だと言えますが、何より当時「神の子」とはローマ皇帝特有の語であり、他の人間がこれを称すると死罪と考えられていたのではないでしょうか。パウロはこの手紙をローマに送っています。これを堂々と記すことは、大変勇気の要ることであったはずです。その危険性をパウロが知らないはずがありません。
 
相続人についての件では、子供とあるのは別の語で、神の財産を受け継ぐ地位に置かれた者であることを強調した表現であると言えます。神の子となると、もはや律法の支配に喘ぐ存在ではなくなります。自由が与えられた、自由人です。奴隷の霊とは違うのです。あのガラテヤ4章で残酷なまでに女奴隷ハガルの子と違うと対比してパウロが熱く語っていましたが、パウロには律法の否定を覚らせるために必死だったのでしょう。
 
もはや律法に制約されるしかない生き方は、超克されてしまったのです。肉に従う生き方でしかないなどという考えは不要となりました。神の子とされる霊に生きるのです。これは「アバ」と父を呼ぶことだといいます。イエスの主の祈りばかりでなく、ゲッセマネの祈りでもそうです。祈りの中で「アバ」が何度も持ち出されます。ということは、このことは信仰要因として決して小さくはなかったのではないでしょうか。
 
キリストが神をアバと呼び、私たちもそう呼ぶ神の子とされたのであれば、キリストとは兄弟ということになります。キリストと共同相続人だということです。但しパウロはここに、キリストと共に苦しむなら、という条件を付けます。そのときには、共にドクサたる栄光を受けるのだとしています。
 
言葉がリズムよく流れていきます。私たちはすでに肉に属しておらず、肉の命令だけを聞く存在ではなくなっている、そこから分離されていることを確認しましょう。肉体を有してはいますが、霊の法則の中に移されているのです。これが、神の子とされている所以です。「御在天の父なる神さま」と祈るのがよいのではありません。「アバ」です。もっと親しく「父ちゃん」の感覚で祈れと何度も言われているではありませんか。


Takapan
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