肉の法と霊の法

チア・シード

ローマ8:1-11   


己の姿にパウロは絶望しました。自分の肉には罪の法則が及んでいて、それから逃れることができないのだ、と。だから、ということで救いが告げられることになります。絶望で終わるはずがないからです。キリスト・イエスにあるものが罪の中に放って置かれることはないと断言するのです。救い主とはそういう者であるからです。
 
命の霊の法則が、私たちを自由にしてくれます。ローマ書でパウロが放つ言葉の中に「法則」と訳されている語があります。しかし邦訳がそうなっているだけで、他の言語ではわさわざそこだけ訳し分けるようなことはしません。「律法」という語がそのままに使われています。もちろん原語でそうなっているからです。
 
そもそも「律法」ですら、聖書で使われている特別な意味をもたせるために法律という日本語から変形して作られた語です。何かの意味をもたせるために新しい用語を生み出すのに日本語は適しているとも言えますが、元の語が含んでいた豊かな概念の拡がりを認めない、あるいは解釈する人から排除してしまう寂しさも覚えます。
 
私は「法」という語で全部訳せないかと考えています。ひとつの訳語にしてしまうことにより、意味を激しく狭く制限してしまうことになると思われるからです。法は律法と訳されるような意味で、私たちに罪を覚らせます。つまり死をもたらします。しかし、霊の法則があります。これは私たちに命をもたらします。律法とは訳されません。
 
命と霊の法は、福音のメカニズムです。罪に支配されている形の私たち人間と、キリストは同じところに立ってくださいました。そのキリストだからこそ、そこにある罪を処分する道を備えて下さったと言えるのです。法の狙いが律法の要求です。神の法は、命と平和をもたらします。それは霊の内にあります。キリストの霊をもつならば、です。
 
さまざまに言い換えることで、パウロか手を尽くして表現を用意し、言いたいことを伝えようと努力している様子を感じます。霊は義によって命となるからこそ、絶望的な体の罪を目の前にしても、凹みません。この霊は神から来たものでした。キリストを死者の中から復活させた方の霊であり、その霊が私たちをも生かすのです。
 
時折重くのしかかってくる、肉の思いと霊の思いという言葉。いったいそれは何でしょう。前者は死であり、後者は命と平和です。後者がよいに決まっています。それでも肉は私たちにまとわりついて離れないものです。それに支配されてしまわないように、キリストの犠牲がありました。
 
「の」は何でしょう。肉が思うのでしょうか。肉を思うのでしょうか。思いが肉に属するのでしょうか。これもまた、一つに決めてしまわないように、曖昧な「の」のままでよいような気がします。一人ひとり、その都度置かれた自分の状況に相応しい形で、聖書から日々新しく声を聴いていくのです。命を思う心を常に抱いていきたと思います。


Takapan
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