恵みの下にいることの意味

チア・シード

ローマ6:1-14   


「私たちの内の古い人がキリストと共に十字架につけられた」ことは、周知のことのようにパウロは言います。「私たちは、キリストと共に死んだ」のです。そのキリストは、「ただ一度罪に対して死なれた」のでした。が、私たちの「罪の体が無力にされて、私たちがもはや罪の奴隷にならない」ことが目され、キリストにより実現しました。
 
「死んだ者は罪から解放されている」のです。私たちは「キリストと共に生きる」のです。パウロはそう「信じます」と言っていますが、パウロの中でそれは、揺るぎない真実であり、もはや事実と呼ぶに相応しいものでした。「キリストはもはや死ぬことがない」というのが、復活後のあり方であることは、もちろん適切な言い方でしょう。
 
「神に対して生きておられる」キリストは、死の支配を全く受けつけなくなっているわけです。だから私たちも、キリストにあって「生きている者」なのです。そう「考えなさい」というパウロの言い方は、かつては「認むべきである」というような訳もなされていました。ここは強い言葉であり、ぼんやり考えるというようなことではありません。
 
私たちは「罪に対して死んだ者」ですが、「神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者」であることをも、もはや疑うことができません。何故パウロは、こうまでして対比の上で、罪と死の力に対して「新しい命に生きる」ことを、激しく繰り返すのでしょうか。「恵みが増すようにと、罪にとどまるべき」という誤解が聞こえてきたからです。
 
なんという自分本位な解釈なのでしょう。悪を犯せば救われるというなら、もっと悪を犯せばいいのだ、などと考えるのは、神を手段にしてしまうことではありませんか。私たちは「キリスト・イエスにあずかる洗礼を受けた」ではありませんか。だから、「体の欲望に従うようなことがあってはなりません」と言うのも当然です。
 
「五体を不義のための道具として罪に献げてはなりません」とも言っています。むしろ自分自身を神に献げよ。罪に支配させず、律法から自由になり、「義の道具」とせよ。それこそが「恵みの下にいる」ということの真の意味である、とパウロは強く言いたいのです。私たちは、えてして曲解して、自分だけが真実を見つけたつもりになりがちなのです。


Takapan
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