死と命の奥義

チア・シード

ローマ6:1-14   


奥義というのは、秘められた真実のことですが、ギリシア語ではまさに「ミステリー」の語です。アダムとキリストとをパウロは巧みに対比させます。アダムは人間に死をもたらし、キリストは人間に命をもたらす、ということでする非常に分かりやすい対比ですが、さて、そこに私自身はどのように関わるのでしょうか。
 
アダムは罪により、死をもたらしました。それならば、私の中にある罪をどう捉えたらよいでしょうか。とりあえず、ここでは二元論的に話を整理してみます。間違っても、神の恵みがあるなら、ますます罪の中に生きた方がよいなどと考えてはなりません。パウロはこうした極論を退けます。罪は、否定されなければならないものなのです。
 
だから、私が罪から逃れられないということを考えると、私たちは罪に死ぬしかないのです。これを、キリストに与る洗礼とも呼び、キリストと共に葬られたのだ、とも言っています。実にキリストは、命へ至る道を拓いたのだけれども、死を経験したとも間違いなく言えるのです。死者の中に行ったからこそ、そこからの復活がありました。
 
それ故に、死んでなお復活するという希望と信仰が与えられることになります。私たちは、かつての罪に死に、新しい命に生きることが許されるようになりました。キリストの死であったからこそ、その死は命へと展開します。これに与る、いわば乗っかるようにすることで、私たちも命を与えられることがありうるとするのです。
 
そのためにこそ、死というエポックがあります。私たちの古い人間、罪なる自分は、キリストと共に十字架刑により殺されている。これを信ずるか。そこに死んだならば、もはや罪の奴隷ではありません。罪の支配下には、もうないからです。そうしてキリストと共に生きるようになったからには、もはや罪に対しては自分は死んだ者となっています。
 
そこから神に向いたら、キリスト・イエスにあって生きる者とされたことになります。そう認めるのでなくてはなりません。だからもう罪へと引き戻されてはいけません。神の方を向くしかありません。もう罪に操られず、神の国に生きる者として、神の法の下に立ちなさい。律法にではなく、恵みの支配の中に、私たちは生きるようにされているのです。


Takapan
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