信仰の計算

チア・シード

ローマ6:1-14   


「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」(6:11)が新共同訳。「結ばれて」の趣味は毒々しい。自分が罪に対して死んでいる一方、キリスト・イエスに於いて生きていると数えよ。「数える」と訳すべき場合に使われる語が実際ここにあるのです。訳では「考えよ」「弁えよ」「認めよ」などと命じ方が工夫されています。いや、苦労していると言うべきでしょうか。筋道の通った考え方によって、確かな結論を導いている様子を示します。
 
だって考えてもごらんよ。キリストが罪に死んだけれども復活して生きているんだぜ。君たちもそうじゃないのか。そんなふうに迫っているかのようです。ここは「君たちは」「君たち自身を」と丁寧に畳みかけて強調している点を訳してもいい。「罪に対して」「神に対して」という対比がどの訳にも共通ですが、ここで一つ考慮しておきたいことがあります。それは、「対して」という語がギリシア語原文にはないということです。
 
どういうことかというと、これは与格だけで表されていて、実のところ曖昧なままそこにある、ということです。日本語ならば「〜に」を標準とするもので、そしてその「〜に」には様々なニュアンスがその都度あるのと同様に、ギリシア語の与格は、はっきりとひとつに確定できないファジーな含みを以て使われる可能性の高い用法だと言えるのです。解釈も多様となります。だからここでも「対して」と百パーセント決定してよいのかどうか、考慮する必要があるのではないか、というわけです。
 
「罪に」「神に」とだけしておけば、訳としては十分なのであって、その意味合いは読者が一人ひとり見合った形で受け止めればよいのではないでしょうか。罪に関与してなのか、罪に伴うのか、あれこれ考えてみるのもよいし、もしかするとそれを読むその時毎に違った意味合いで受け止めることができるかもしれません。もちろんパウロ自身は何かひとつの気持ちで書いたのかもしれませんが、しかし筆者自身、あまりにひとつの意味に確定できないからこそ、「対して」のような語を付けなかった、とも考えられると思うのです。
 
キリストが罪に死んだのは、自身のなした罪に於いてではありませんでした。しかし私たちは自身罪を犯しました。パウロはこの「罪」を単数で用いています。一つひとつの罪の行為を挙げて想定しているのではありません。つまり、前章で記されたアダムの罪を引き継いで述べているのです。人間にこびりついて消すことのできない罪という性質があり、これが死をもたらします。
 
しかし、そのような罪が加わってくる一方、キリストにより恵みが満ちあふれます。その罪は無効とされました。キリストがその罪の代価を払い、私たちを解放したのです。但し、だからと言って俺たちは無罪だ、悪いことをしてももう大丈夫だ、という極論に走ることが許されるわけではありません。それは神の論理を壊すことになります。パウロはその幼稚な論理に警戒を怠りません。
 
私たちは、溺死を表す洗礼により死へと関わり、キリストと出会います。キリストと一つになったのですが、それはここに「共に十字架につけられた」という一語があることで感じられます。もはや死はアダム以来の罪「から」解放されています。律法が追い詰める罪の支配を免れています。復活のキリストが生きているなら、私たちも神に生きているからです。
 
キリストの内に立つ私たちは、キリストが死に勝利した以上、もう罪の呑み込まれはしません。たとえ思うようにならない我が身をパウロが次章で嘆いたように、絶望的な思いが襲ってきて嘆きの涙に包まれたとしても、私たちは、計算を許されているのです。算段するかのように、数えてよいのです。「数える」と訳しうる語がそこにある以上、もうカウントしていまう。それこそが「信仰」なのではないでしょうか。


Takapan
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