希望と神の愛

チア・シード

ローマ5:5-10   


神の愛が私たちの心に注がれている。心はカルディア。理性に制限されないし、霊というのともと違います。心臓を表すとともに、人格的な心の全体像をイメージさせます。そこに神の愛が注がれます、パウロはそのように言葉を選んで知らせます。感情もみなそこに含まれる、私の全体を、神の愛が満たしていくことになるのです。
 
私たちは全身全霊、神の愛を受けています。それは、よし気づかずとも、聖霊が与えられているからです。信仰による義がそれをもたらしました。神を知らなかった者、これは弱い者という語とリズムを作っているようですが、パウロは、正しい者のためにすら人は死ぬのは困難だとし、罪人の私たちのために死んだイエスを目の前に示します。
 
すると今はもはや罪人ではない。そういうことになります。神の愛がこれを成し遂げました。死んだキリストを己れのためと信じ仰ぐ者は、もう罪人とは呼ばれません。これが義とされるということであり、救われるということなのです。キリストの死とキリストの血が同じものを指すように扱われるのは、ユダヤ人にとり血が命だからなのかもしれません。
 
他方、神の怒りというものも確かにあります。前提されているとも言えます。敵対する者は今もいます。しかしかつて私たちも神の敵でした。これを否むことはできますまい。敵だった中で私たちをキリストは愛してくださいました。敵を愛せよとの命令は、キリストがなしていたことでありました。
 
救いは、人から見れば救いであって、私たちの視野からすれば救いにほかならないのですが、これをパウロは、神との和解という、比較的客観的な視野からの描写で私たちに教えてくれています。私たちは神との和解を得たのです。キリストの命によって救いが与えられていることで、神と和解した図式が成立しているのだ、という景色を見せてくれています。
 
だから、どんな困難や苦痛の中に置かれようとも、私たちに見せられた希望は消えることがありません。希望は私たちを裏切ることがないのです。注がれた神の愛が、私たちの弱い心の中から、希望をかき消すような働きをすべて無効にしてくれます。希望を失う材料は、キリストを見上げる限り、そこには全くないのです。


Takapan
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