かつてと対比して知る希望

チア・シード

ローマ5:1-11   


パウロ神学などと言うと、パウロ本人は苦笑いをするかもしれません。もしそれがあるなら、やはりこのローマ書を挙げることが近道でしょう。中でも5章から6章は、人の救いという的に迫る要点が詰まっているようにも見え、見逃すことができない箇所だといえます。信仰による義そのものは、それまでに触れられ、アブラハムのことも書かれていましたが。
 
信仰によって義とされると、どういうことになるのでしょう。その恵み溢れる一つの結果は、ここから明らかにされてゆきます。苦難から希望へと登り詰める過程は、実に見事です。どれほど私たちの勇気を駆り立てることでしょうか。でも、いまここでは、それに続く言葉、「私たちがまだ弱かった頃」というところに注目してみようと思います。
 
「私たちがまだ罪人であったとき」と、それが同じものを表します。「敵であったとき」もそうです。救われた後の今とは異なり、このかつての姿に思いを馳せるパウロの心境に、少し寄り添ってみたいと考えます。エリートコースをひた進んでいたかつての自分の姿、この世での力を約束された歩みの最中に、パウロはいました。得意満面でした。
 
しかしそうした自分を、今にして思うならば、弱く、罪人に過ぎず、神の敵ですらあった、とするのです。この状態に、キリストの死が起こりました。キリストとの出会いがありました。キリストが死んだことで、パウロは神との和解を与えられた経験をもつのです。愛が示され、神の怒りから救われました。そうして神と和解させて戴いたのです。
 
一方的に神の側から犠牲を払うことでの和解など、そんなうまい話があるのか、と思うほどです。いや、確かにあるのです。現にあったのです。もちろんパウロはそれを自身の体験として語ります。しかし、ここにいる私たちもまた、そのパウロの体験に重なる出来事を、自分の体験としてもつことができるのではないでしょうか。
 
私たちは、こうして神を誇ることしかできなくなりました。救われたのです。それだから、とこの箇所を読んでいくようにしましょう。苦難に出合っても忍耐が生まれます。それが品格をつくります。そして希望へ至ります。神の愛を受けて、私たちはいま、希望を懐いて歩みましょう。もはや希望しかないような生き方が、許されるようになったのです。


Takapan
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