信のカンヴァス

チア・シード

ローマ5:1-11   


神と和解させてもらいました。受動相であるから、和解させられた、でよいでしょうか。信仰により義とされた、というのも受動相。人は、神の側からのアプローチに委ねています。イニシアチブは神の方にあります。信から義とされ、信に望みへのアクセスを得ている、パウロはそういう思考の道を辿ります。
 
神の栄光の希望の上に誇りを有している、これがその結論です。パウロの中で、現にある事態を、語る側としてパウロはとにかくなんとか表現して語ればよいのですが、パウロの恣意により発されたその言葉や表現が形をとり、それを材料として、元のパウロの心に浮かんでいたことを再構成して組み立てるという作業は容易ではありません。
 
そこには誤解も生じ得ます。パウロの考えは、現れたテクストの源泉なのですが、それを思いはかることの困難さをまた覚えます。けれども、神と信との関係がそこにあるのは確かで、それが結ばれる過程の名称として、和解というものが挙げられているように見えます。その状態を平和と呼ぶのなら、そこに神の栄光へと到る希望が生まれることは確かです。
 
それはうれしく誇らしいことです。この状況で、パウロは有名な個所を挟みます。誇るのは希望ばかりでなく、苦難でもよいのだ、と。だからその苦難が忍耐を云々というのは、筋からすれば傍流なのです。クリスチャンはどうしてもここを有り難がる傾向にありますが、本来そこは、パウロの主張したかったことではなく、希望こそ示したいことだったのです。
 
この希望はキリストの死によりもたらされました。キリストの血が救いをもたらし、その和解の道をつくってくれました。それはもちろん神の側からのアクセスです。私たちにはその次に、私たちの方から神にアクセスできる道が与えられたということになります。希望を誇っていたというのも、実のところ神において誇っていただけでありました。
 
2節では、希望「の上に」誇っていたのですが、11節では神「の内で」誇っている、そういう前置詞が用いられています。どちらも「を」で嘘ではないのですが、「の上に」と「の内で」のニュアンスを受け取ってみると、私たちと神との関係がより明確に描き出されてくるのではないでしょうか。
 
キリストという道を通っているから、キリストを通して和解がもたらされました。信という霊的な背景が形成した道が、一本見えてきます。一つひとつの言葉をこのように押さえていくことで、カンヴァスに一筆ずつ絵の具が加えられ、一枚の画が描かれていくような思いがします。パウロの見た風景の色が、いくらかでも再生できるでしょうか。


Takapan
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