蜘蛛の糸

チア・シード

ローマ5:12-21   


日本人なら、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を知っている方が多いことでしょう。一時は、『カラマーゾフの兄弟』の中の挿話に基づくのではないか、とも目されていましたが、どうやら別の仏教説話に由来するらしいと言われています。罪にまみれていたカンダタが、死後地獄の責め苦に苛まれていました。これを天上からお釈迦様が見て憐れみます。
 
カンダタがあるとき、蜘蛛の命を助けたことがあったのを、思い出されたのです。そこでお釈迦様は、一本の蜘蛛の糸を垂らします。これを登ってこいという救いの道でした。パウロから見れば、この一本の糸こそ、イエス・キリストの恵みだと言えるでしょう。多くの過ちがあっても、一人の人イエス・キリストを通して、命が与えられるのです。
 
けれども本来罪というものは、一つの罪がその人の運命を決定するものです。いくら善行を重ねた人間であろうと、一つの犯罪がこの人に死刑をもたらすことがあるわけです。これら二つの考え方は、両立しにくい論理です。しかし罪の中の一つの救いの糸は、恵みである点で質が異なります。多くの善行は人間のものですが、それは外からのものなのです。
 
アダムは決定的な罪を人の世界に招き入れてしまいましたが、それもある意味で外からではないでしょうか。蛇の誘いとエバの言葉が契機となっています。キリストの救いはもちろん人の家からのものとは言えません。私は何らそのために労苦をしていないし、寄与するところもなかったのです。キリストおひとりが、人を義とすることができるのです。
 
キリストだけが、命をもたらすことができます。正しくなどない者が正しいとされるのであって、人が自分で自分を正しいと思い込むこととは全く違います。律法は人を正しくないものだと徹底して教え示すものですが、人自らがそうであっても、キリストから届く一本の糸が、恵みとしてきらめいている。これにすがれば、救われるのだ、と。
 
当然、『蜘蛛の糸』の如くに、自分の一人のものだから他人を排除するというようなことをするのは、望ましくないはずです。ただパウロはそのようなことをここで考慮してはいないようです。むしろ徹底的に個人の信仰を考え、その範囲の中で救いというものに全能力を傾けて臨んでいるそのままに、パウロという人をここでは尊重することにしましょう。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります