ユダヤ文化を通じてつながる道

チア・シード

ローマ5:12-21   


アダムの伝説がすべての人の罪の根拠であるということを、果たして現代人は、受け容れることができるでしょうか。逆に言うと、当時のローマの人々は、これを受け容れたのでしょうか。ローマの文化の中に、こうした教義が、通用したのでしょうか。むしろその後、ローマの国教となってからのみ、権威の柱にできただけなのでしょうか。
 
キリスト教はまだ新興宗教に過ぎませんでした。いまの時代に新興宗教を思えば、どのように扱われていたのか少し想像がつきます。しかも所はローマ、ユダヤ教は異教文化です。このような環境で、どこまで聖書文化が理解され、行き渡ることができたかどうか分からない中で、パウロのこの旧約文化を前提とした説得が通用したのでしょうか。
 
でもこれはやはり、信徒への手紙です。ユダヤ人が多くいたのでしょう。中には異邦人もいたと思われます。それは何らかの形で聖書を求め、探究した人なのでしょう。それにしても、その聖書を、今この時代に私たちが信仰すべきものとして伝えようと乃目論んでいるのは、どうかしています。なんとも虫の好い考えをしています。
 
本当はこの手紙は、信徒向けのものであり、かつ奥義であったはずです。すると、一人のアダムにより注ぎ入れられた罪を、一人のキリストが集約して処分するという図式について、私たちはすんなり肯んじて受け容れるだけです。また、どういうところに神の霊をパウロは感じ、交わったのでしょうか。知りたいと願ってはいけないでしょうか。
 
パウロを通して表された神の思いというのはあるでしょう。しかし、それが神の思いのすべてである、と決めつける必要はありません。私たちは、パウロ教を信じているのではないのですから。でもそれは特筆すべきひとつの輝きだであると受け止めれば十分です。一人の死があって、一人の命が来る。アダムの死が、キリストの命へとつながる。
 
でも人は、キリストなしでは、死しか与えられないために、もがいていました。キリストが現れてこそ、命への道がもたらされたことになります。永遠の命へと真っ直ぐに続く道です。土から生まれた私たちは、キリストという神の子の死を通じて、もはや死に終わらない結末を約束されています。これこそ、恵みと義の賜物だというのです。


Takapan
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