一人によって

チア・シード

ローマ5:12-17   


まだ見ぬローマの人々へ宛てて、パウロは手紙を綴ります。思いの丈をぶつけます。キリストを通して、人の罪の問題は、神との和解へ至るのだ、と叫びます。そもそもこの罪なるものは、どのようにして存在するようになったのでしょう。ユダヤ人なら、皆知っているアダムによるとパウロは言います。パウロはすべての罪がアダムから始まっているという点に注目し、強調しました。ユダヤ教では、そのような捉え方はなされていませんでした。
 
すべての罪をこのように一つの出来事、一人の人物に還元できるなどと言えるのでしょうか。パウロはそこに固執します。罪が一点に還元できるからこそ、罪からの赦しあるいは救いというものも、一点に於いてなされると主張することが可能になるからです。すべての救いは、イエス・キリストの死と復活の出来事によりなされるというテーゼが根拠づけられることになる、と考えたと見られます。
 
但し新共同訳の「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように」は、不自然な表現のように思われます。フランシスコ会訳は、文が中断していると見て訳しています。パウロが言いたかったのは、アダムという一人を通して罪が始まり、それによって死がもたらされたこと、これがすべての人が罪を犯したことを意味することを、はっきりさせることでした。
 
ここで、一人からすべての人へという推論の根拠が必要と思われたので、そちらに口が進んでしまったけれども、このアダムと同じ立場で、一人によりすべての人間が今度は義とされ救われ罪なき者との判決を受け、死の罰を与えられない身となる、つまり永遠の命へと導かれるという構図を、伝えたかったのではないでしょうか。これがキリストです。一人のアダムを持ち出すことで、一人のキリストにより命がもたらされることを、説得力をもって主張するのです。
 
それで先の「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように」は、たとえば後の「神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです」で結ばれることになるわけです。同じことが「神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人」が生きるようになるなどと描かれますが、こうして二人の「一人」が繰り返し告げられることで、次のことを明らかにしようとしています。
 
律法違反が即座に死を結末とするよう運命づけられているわけではなく、罪と死の原理が一点に集約される以上、同じく一点であるキリストに出会いそこに信を置くのであるならば、義が恵みとして、つまり人間自らでは全くなく、神から与えられるものとしてもたらされ、永遠の命へ私たちを招き入れてくれるのである、と。


Takapan
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