どうしても福音を伝えたい

チア・シード

ローマ1:13-15   


どうしても福音を伝えたい。パウロはローマに手紙を送りました。まだ見ぬ地の、殆ど知らない人たちを相手に綴ります。挨拶も必要ですし、自分がこの手紙で何をしたいのか、目的についてもはっきりさせておく必要があります。世界の中心とも言えるローマ帝国の首都へ、福音つまり良い知らせを告げ知らせたいのです。
 
教会で、手話通訳をする人がいます。ろう者に、礼拝プログラムや、礼拝説教を通訳して伝えます。ただ単に、言われた言葉を右から左へ変換していくことだ、と思う人がいるかもしれませんが、全く違います。相当な言い換えを行い、限られた手話の単語に置き換え、またその意味は伝わる仕方につくりかえていきます。それも同時通訳で瞬時に。
 
ろう者は、キリスト教会の礼拝というものから排除されています。殆どのプログラムが音声のみで進んでいくからです。後から原稿を読むことはできますが、その都度のコミュニケーションが難しいのです。同じ場所にいても、全く違う空気の中で孤立しかねないのです。手話通訳は、それをつなぎとめます。語られる福音を確実に届けます。
 
なんとかしてこの良き知らせを目の前のろう者に伝えたい。この霊の働きをシェアしたい。その熱意がなければ、手話通訳などやり通せることではないのです。できる範囲でやればいいだろうとか、自分の能力スキルを高めるためにとかいう動機で買って出る素人がいないわけではありませんが、とんでもないことです。手話のプロでも聖書を知らずにはできません。
 
どうしても福音を伝えたい。パウロは今までも、異邦人社会の極としてローマに行きたかった。しかし機会が与えられなかった。パウロの口では、妨げられていたと言っています。ギリシア人というからには先進国の文明人、歴史と伝統も豊かな民族です。バルバロイはギリシア語を話せないというだけで差別的な表現で呼ばれていたその他の人々です。
 
でも当時のことですからやむなきとしましょう。でも、福音を届けるという視野では、差別をせずに人間すべてに救いをもたらそうとしている熱意の現れであることは確かです。知恵があろうがなかろうが、命の言葉は大切です。男も女も、とは書かれていませんが、パウロは頭に置いていたでしょうか。ちょっと問うてみたい気もします。
 
ともかくパウロはこうして余すところなく伝えることを自分の責任だと意識していました。この責任感の有無は大きなものです。私たちにあるでしょうか。自分に与えられた使命、自分がいまここにいることの意味、それに悩む人がいますが、他人が「自己責任」だと押しつけるようなものとは違う、自ら覚る責任意識こそが、それだとは言えないでしょうか。


Takapan
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