主に生き、死ぬということ

チア・シード

ローマ14:7-12   


人は生きるし、死にもします。しかし「私たちは誰一人、自分のために生きる人はなく、自分のために死ぬ人もいません」とパウロは言い、続いて「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ」と、逆の真理を指摘します。「生きるとすれば」とは仮定の話です。不自然な言い方です。もちろん、パウロは現に生きているからです。
 
生きているキリスト者であっても、すでに亡くなったキリスト者に於いても、主に属している(属格)ことを言いたいために、「生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のもの」だという言い方をしているものと思われます。では先に「主のために」とか「自分のために」とかいうのは、どういう意味なのでしょう。もうひとつスッキリしません。
 
「のために」という意味を示す前置詞が使われているのかと思ったら、ここには前置詞はありませんでした。使われていたのは与格です。名詞の格変化の一つで、日本語で比較すると「〜に」のニュアンスに近いとされています。「〜で」にも匹敵する場合があります。つまり「〜のために」の中で根幹にあるのは「に」の方なのでした。
 
「のため」は、解釈によって限定的な意味を与える部分ですから、読む者にもう少し理解の自由を与えることを考えてよいと思います。「キリストにあって」を無理矢理「キリストに結ばれて」と訳した新共同訳は、聖書協会共同訳では前者に戻されました。それでよいのです。自分に生きたり死んだりしない。主に生きたり死んだりする。これでいい。
 
そしてキリストが生き、死んだというのですが、そうして主に生き死ぬ者が、キリストを主とすることになった、という信仰のベースをここに置くことを、パウロは言っていると考えます。この辺り、直前のところから、人を裁くことを戒めている文脈です。だからここは教義を述べているのではなくて、教会の仲間を裁くことを戒めているのです。
 
教会のメンバーは共にキリストの弟子なのです。裁いたり軽んじたりしてはならない、と言っています。主にあって生きもし死にもするのですから、誰しも神の前に同じ立場である、と自覚すべきなのです。一人ひとりが主にあるのであり、主のものであります。キリストはもう常に生きています。神もただ生きています。神は死んだなどとは言わせません。


Takapan
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