主のためと私は受けとめずに

チア・シード

ローマ14:7-12   


信仰の弱さといった事柄から、食べる、食べないも主のためだ、と言い及んだパウロです。いえ、そもそもすべてのことが、そう、この命すら、主のためではなかったか、と膨らませていくような言葉の投げかけ方をしています。生死すら、自分のためではないではないか、と言うのです。ただ、私はずっとここのところが素直に呑み込めませんでした。
 
原文を見ると、「のため」というような語が明確に置かれているわけではありませんでした。すべて与格になっているだけです。与格の働きは、どうかすると曖昧なところがあります。日本語だと「に」に相当しますが、それに限定もできず、場面によってニュアンスの異なる使い方がなされ、日本語にするときにも様々な訳語が可能です。つまり解釈が入るのです。以下、ど素人の文法の説明は、きちんと学ぶ人は話半分に聞いてください。
 
邦訳聖書は見ると「ために」が並んでいます。この日本語のフレーズは、どうしても目的の意味を連想させます。与格が明確に目的を表すと決められるものでしょうか。いえ、「ために」であれば、手段の意味合いもあるでしょうし、原因を表現する場合があるかもしれません。その曖昧さを訳語は意識しているのかもしれませんが、私は日本語ではどうしても、目的だと解するほかないと感じていました。原文を見る前は、ずっとです。
 
生死はどちらもキリストが支配するように、と結論のようにも言われています。ここもよく見ると、生きる者を、死ぬ者を主人たる支配をするように、のように読めますが、この「を」の部分は属格です。属格もまた厄介です。「の」で片づけられないからです。私たちは主のものとして主に属する、という言い方だと「として」が属格になります。
 
この結論のような部分には、あの与格は使われていません。私たちはキリストを主とする支配下にあります。主に属する者です。このように言っているだけです。ここへ運んでいくようにしたいならば、あの与格の「のために」は、いっそ「に」だけにして訳すのはどうでしょう。「自分に生き、死ぬのでなく、主に生き、死ぬのだ」とでもして。
 
何を言っているのか明確でないと言われそうですが、パウロがそういう書き方をしていることを踏まえると、このような言明を、受け取った各自が、それぞれにその信仰に合わせて受け止めるゆとりがむしろできる、と考えられると思うのです。各人の信仰をそこに乗せてこの言葉を受けるのです。
 
私たちは主の手の中にある。人は自分で自分を支配したり、律したりしているのではない。だからこそ、兄弟を自分の気分や自分が定めた道徳あるいは宗教によって、勝手に評価を決めつける、すなわち裁くようなことをしてはならない、と言えないでしょうか。誰もが神の前に立っているだけです。人から裁きが出るのはよくない、裁くのは神だ、と徹底的に捉える視点です。
 
すべてのものは神に服しています。イザヤ書の引用も、そのことをはっきりと伝えています。できることがあるとすれば、せいぜい自分のことについて弁明するくらいのものです。私の感覚に過ぎませんが、「ために」をこう捉えて受け止めました。「自分を基準にして生きたり死んだりするように考えるべきではなく、生も死も、主を基に捉えようではないか」と。


Takapan
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