人間だけの関係でないところに

チア・シード

ローマ14:13-19   


信仰の弱い人を受け容れよ、という忠告の流れの中の一コマ。それは互いに裁き合わないということでもありました。つまずく人は勝手につまずいたというわけではありません。こちらが仕掛けてしまったのです。妨げをつくり、あるいはそこに置いて、引っかかるようにしたのです。知らず識らずということもありますが、故意かもしれません。
 
パウロは確信します。それは主イエスの内で体験したことだと捉えているはずです。汚れというものは、それ自体そうなのではなく、認識主体の中の感情や思考が、それを汚れたものと決めてしまうのだ。それは近代的な主観にも似た捉え方のようにも見えます。パウロの汚れの定義は、近代人の私たちにも分かりやすいように見えないでしょうか。
 
ここでは、食べ物についての話が続いています。パウロはその例を挙げています。食べ物自体が、人の心よりも尊いなどということはないのです。愛という原理に沿って歩むようでありたいと願う。自分でそれをしている、などという気づき方はできないかもしれません。どこまでも自分の見え方という立場に基づいて捉えることしかできないでしょう。
 
食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。「滅ぼすな」というメロディが、詩編の表記から想像されます。まさにそのように、食べ物のことでひとの魂を滅ぼすようなことへと向かってはならないのです。なぜなら、キリストが死んだのは、その人のためでもあったのだ、とするからです。これは、目を開かされます。大きな着眼点だと思います。
 
キリストの故というのは、私と誰かとの間の関係が二人のみの問題ではないということです。その間にキリストが介在するとしているからです。神の国は飲み食いのことではない、というのは、人間だけで全うされる論理ではない、ということをここから私たちは厳しく教えられます。人と人との関係の中に、キリストが確かにいるとするのです。
 
それは、義と平和と喜びであると言います。それらはすべて、聖霊に基づくものだ、ともしています。互いを築き上げることを、私たちは目指していると言えるでしょうか。それができる、と信じて前を向いているでしょうか。人と人とが向き合うとき、私たちはそのことを互いに真摯に考えてみなければならないはずなのです。


Takapan
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