キリストが死に、生きたように

チア・シード

ローマ14:1-12   


同じキリスト者といっても、それぞれ別々の環境で育ち、別々の人生が与えられ、別々の救いを経験しています。キリストの前にどういう信仰をもっているかについても、様々でしょう。同じ物事への感じ方も、判断も、反応の仕方も違ってきます。それを、相手の信仰がダメだとか、おかしいとか、考えてしまいがちなのが人間というものでしょうか。
 
イエス自身がこれを助けようとしたこともあったでしょうが、後のパウロなどによる手紙が、そうした生活上の問題について補っている点はありがたいものです。食べ物のこと、暦の上での縁起のようなものの意見の相違が紹介されます。信仰が弱いか強いかは別としても、当時の人々の、生き生きとした感じ方、考え方が迫ってきます。
 
どの人も、神との関係において、それぞれの信仰が確立しているのであれば、とやかく他人が口を挟むべきことではありません。そこはうるさく検討することは今はしないで、後半部分の一般的な忠告を、よく聞いてみることにしましょう。自分のために生きることはなく、主のためである、というほどに、私たちは主のものだというのです。
 
この一点を定かなものとすることが、まず必要です。そしてさらに、キリストが、「死に、そして生きた」と掲げられているところにも、注目すべきです。キリストが十字架に死に、そして復活した、ということを如実に示しているからです。私たちもまた、かつての自分において、死を経たはずです。それから生きている主へと連れて行かれたのです。
 
すべての膝、すべての舌、その中に私はいるでしょうか。神の前に膝をかがめ、神をほめたたえているでしょうか。ひとを裁くような立場に、私はありません。私は神の前に被告人として引きずり出されるだけです。パウロ自身もそういう意識だったことでしょう。だからこそこの手紙を書いたのです。こうして神を知る者だけが、証言できるのです。


Takapan
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