愛についてのパウロの姿勢

チア・シード

ローマ13:8-10   


教義的内容に多くの時間と労力を割いたパウロは、ローマ人への手紙の後半で、生活上の指針を慌てて並べようとしているように見えます。必ずしも系統立って論じているのではなく、流れるように心に浮かんだことを置いていくかのようです。もちろん、それは気ままに記しているという意味ではありません。十分な構想の下になされているのだとは思います。
 
兄弟愛について触れた後、時に問題視される支配者に従うべきことに触れると、その中で税にも背くべきではないと言って、税という義務、そして義務については負債のように捉えたかもしれず、負債あるいは負い目という語について私たちは、イエスの教えた主の祈りがどうしても思い起こされてしまいます。
 
パウロが主の祈りを知っていたのか。私はそれを知りませんが、負い目をゆるしてほしい、という主の祈りが弟子たちの中に伝えられていたことは確かでしょう。私はパウロも知っていたと想像します。それにしても、他人の負い目を私はゆるした、と口にすることの、なんと心痛いことでしょう。
 
それは愛することの中にのみ解決されるものなのでしょう。当該箇所は、アガペーの動詞形に始まり、アガペーの名詞で結ばれます。律法の真髄を、隣人を愛することとして示すパウロは、イエスの精神を正直に受け継いでいるように見えますが、果たしてパウロは愛を強調していたでしょうか。どうしても、ヨハネ文書の愛に比して弱いような印象を受けます。
 
パウロは確かに、愛の章の賛歌のように、やたら並べるところもありましたが、それはむしろ特異なもので、それほど愛について述べていないような気がしていました。このローマ書でいま少し見ているところより前の部分を見てみると、そこには、神の愛、神が愛するという角度から描かれた愛ばかりが記されていました。神の愛が私たちを取り囲んでいます。
 
しかし、他の書簡を見ると、この神からの愛という表現は、パウロにとりむしろ稀であり、教会や信徒へ向けて、パウロは兄弟愛をもつようにとしきりに勧めていることが分かります。特にあのコリント教会へは手を焼いており、しきりに愛することを勧め、また求めています。その切なる訴えは、いまの私たちが読んでも胸を打つものがあります。
 
パウロは、ローマ教会の内実を知りません。顔の見えない人々に向けて、書簡を送っています。手紙とは説教であったとしても、対象の人々が定かでないままに、イメージが明確にもてずに、ここまで書いてきました。どうしても抽象的な議論が多くなりました。生活の指針も、どこか一般的な述べ方に留まります。
 
そのような状況で、愛することを具体的にどのようにするのか、パウロ自身イメージがもてなかったのかもしれません。教えや戒めとして愛することは告げることが可能であるにしても、それ以上のところにまで踏み込むことはできなかったのではないでしょうか。神が愛するという構造は、もっと普遍的に理解しやすいものであったように感じます。
 
愛は律法を全うする、とパウロは愛についての言及を始め、結んでいます。そもそも律法が人を義に導くことはできない、と声を大にして主張してきたパウロです。しかし、律法が蔑ろにされてよいとは言いませんでした。共同体内の隣人への愛をパウロは勧めます。ただ、イエスが教えた、隣人となる愛の精神が生かされていたのかどうか、そこは課題的のように見えます。


Takapan
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