上に立つ権力に従うべし

チア・シード

ローマ13:2-5   


聖書協会共同訳は「権力」と訳しましたが、新共同訳では「権威者」としています。パウロの権力についての見解は、現代では至って評判の悪いものです。特に、地上の権力の中でも悪と呼ばれるようなその権力に限って、この聖書の言葉を我が意を得たりと自らを正当化するために用いる傾向があります。それは聖書を利用する危険な考え方です。
 
いま、権力に逆らう者が神に逆らうことになるという指摘から入ることにします。どうしてかというと、支配者に対しての恐怖は悪を行う場合に生じるのだから、つまりは神の前に悪を為すことと重なるものである、というわけです。善悪の行為を、平板な道徳的次元で捉えるならば、確かにそのようにも言えるでしょう。
 
悪をどう定義するかにより、理解は異なってくるとすべきです。そして私たちはパウロの手紙を受けて、権力は私たちに善を促すよいものとして理解するよう求められていることになります。いたずらに剣を帯びている訳ではありません。その怒りを恐れてというのもあるでしょうが、率先して権力に従うほうがよい、とパウロは言っています。
 
当時のローマ帝国の支配力がどれほど強大であったかを知らせてもいると思います。私たちもパウロを権力の犬のように評してはならないでしょう。至って善良なローマ市民だったはずです。むしろパウロも、ローマ市民権を有していたためにずいぶん助かったこともあったわけです。長い物に巻かれろとまでは言いませんが、社会基盤は否みますまい。
 
権力という言葉から私たちは、国家権力をどうしても思い浮かべます。権威となると趣が異なります。権威とは無縁の「人生」を送ったイエス・キリストを考えましょう。私たちはこの方には実は権威があるということを知っています。そこでかの「権力」または「権威者」を、イエスと読み替えてみると、もとつ納得がいくだろうと思います。
 
イエスに逆らうならば自らの裁きを招くでしょう。イエスは畏れるべき存在です。しかし怖がる相手というわけではありません。イエスは神に仕えもしたし、私たちに従えとも命じました。汝は我に従え、との声が聞こえるでしょうか。羊を呼ぶ声であり、それは軛を外さなくとも、負いやすい軛とします。軛の片側はイエスが負うのです。


Takapan
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