有名な聖句の理解はそれでよいか

チア・シード

ローマ12:3-21   


「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ12:15)という言葉は、クリスチャンの心を励まし、また戒めもしてきました。互いに一つの心になること、美しい理想がそこに掲げられています。確かにキリストにあって一つの体の部分どうしであることを自覚させ、教会における各自の役割をも考えさせています。
 
そこに偽りが混じってはならない、というのも尤もなことです。けれども、そこへ突然、迫害してくる者を祝福せよ、とパウロは言ってきます。祝福するんだぞ、呪うのではないんだ、と念を押してきます。その上で、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい、ともちかけるのです。この脈絡には戸惑いを覚えざるをえないのですが、どうでしょうか。
 
悪には悪を返すものではない。つまりそれは、迫害に対して呪うことをすべきではない、ということです。そうして、すべての人と平和に過ごせと言います。さらに自分では復讐することはままならぬ、神に任せよ、というのですから、モードはすっかり、悪にやられている中で耐えに耐え、善に徹するもだという世界観です。
 
復讐するは我にあり、と人口に膾炙している言葉もここにはみられます。こうした有名な句だけを取り上げて、何か勝手に自分のイメージに当てはめて、分かった気にっているということが、私たちには多すぎるような気がします。神を己れの心の向くままに利用するような理解の仕方でよいのでしょうか。当然の人々の文化環境すら知ろうともしないで。
 
燃える炭火という表現も、箴言から来ていると思われ、私の好む言葉ですが、ここでは後半ずっと同じ視点で物事を見ている点を把握しておきたいと思います。兄弟愛を語っている文脈なのです。教会の一つなることを言っています。この世に倣わず、自らを献げ神の心を弁えよ、とパウロが言い並べているところからその思いを感じとってみましょう。
 
パウロの心にはどこを見つめているのか。それは教会の内部です。実は聞き知ることよりほかに知らないローマ教会ですが、外部からの迫害に喘ぐというよりも、コリント教会のように、内部で何か苛める者が暴れて不和をもたらしていることへの懸念です。そんなとき、蔑まれる者の側に立って勝利せよ、という神の声を、パウロは聞いたのだと思うのです。


Takapan
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