キリストの体と数の多さ

チア・シード

ローマ12:3-8   


手を焼いたコリント教会とのことが、まだ見ぬローマ教会の信徒へのメッセージでは役立ちます。教理的な流れを終えたパウロは、生活レベルの話題を始めようとするに際して、まずこのようなことを心がけました。キリストの体とその一部をなす自分の位置づけを告げるのです。自分を膨らませていくと教会はなりたたない、自分の役割を弁えるという知恵です。
 
ローマの人々へは、具体的な情報をもつパウロではありませんから、自然と話は抽象的とならざるをえません。具体を踏まえた抽象とは違い、一般論に留まるような言い方になるのです。しかしこれは逆に、私たち現代人にも、訴えかける力をもつと言えるかもしれません。抽象なるが故に、誰にでも普遍的に適用が可能となる場合があるのです。
 
私たちには一人ひとり異なる信仰の尺度が与えられています。同じ考えであることはできないはずだということです。そのために、自分の基準に合わない他人を非難するようなことも、ありうるでしょう。でもその前に、自分のことを知るようにする、ということが求められます。自分が変えられることを望む、そこに平安が生まれる、という考え方です。
 
一人ひとりキリストの体の一部を成していたとしても、それぞれに働きや役割が違います、などと言うと本当にコリント書の再現です。パウロはよほどこの喩えが気に入っていたのでしょう、随所で持ち出します。常日頃、口をついてついて出てくる言い回しであったのではないかと推測します。パウロと言えば「キリストの体」だな、などと。
 
この世には、人の役割を勝手に他人が判断して、あいつは用なしだいった発言で満ちています。しかしそう言う口は、顎だの筋肉だのに支えられてこそ動き声を発することができるものです。じっとしているだけの支えがあってこそ、その器官が何かをすることができる、そのようなことは挙げればきりがないでしょう。
 
キリストの体は、このことを忘れると成立しなくなります。教会という全体の中で、各人に与えられた仕事がありましょう。協力し助け合っていきたいものです。新共同訳は相変わらず「キリストに結ばれて」と訳出していますが、これだとキリストと人とが対等に向き合っているみたいにも聞こえます。キリストの内に、私たちはあるはずです。内に、です。
 
ところでパウロは、キリストの弟子たちは「数は多い」と称しています。ローマ帝国の中でも弱小の信仰グループのはず。イスラエルとて、小さな民でした。主の民がこの町には大勢いる、とパウロはかつてコリントの町で主の声を聞いています。同じ「多い」の語が「大勢」でした。預言者も幻の中に大軍の味方を見ました。数は見た目ではないのです。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります