一致と反抗

チア・シード

ローマ12:12-17   


直前には「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい」(12:11)という、有名な言葉があります。これは文脈が違うので今回のペリコーペに含むのは遠慮しましたが、この「主に仕える」ことはどういうことか、具体的に示すならばどうなるだろうか、という問題意識で今回の箇所を読んでみるとよいように思えました。
 
希望を以て喜ぶこと。考えてみると、喜ぶというのは、自然と沸き起こる感情ではないのかもしれません。うれしいのは自然な感情であっても、喜ぶというのは、意志を伴って行う行為であると思われるのです。時に演技にもなります。でも、ここでは希望からくるのですから、偽っているのでは全くない、それでいて意志を伴うものだと理解したいのです。
 
苦難にも耐える。苦難は否応なくひとを襲いますが、それに潰されることのない姿です。主に従う者は、苦難に負けないでしょう。そしてたゆまず祈ること。祈る場面で、腕をこまぬいているということがないように。主に仕えるというのは、たとえばこのようなことだとパウロは提示しているのだと受け止めてみました。
 
仲間に必要な物資を送り分かち合うこと。旅人をもてなすこと。旅人については、中東文化としてもてなすべきだとされているものと理解していましたが、そうでもない側面があったのでしょうか。あるいはローマ文化だから、知らないだろうということで補っているのではないか、とも考えられます。
 
しかし、迫害する者を祝福する、こうした文化はいずれにもなかったことでしょう。呪うのが当然であるところを、祝福するというのです。パウロもそう言えば、理不尽な仕打ちを受けた後にも、相手を罵るような真似はしていないように思います。神と向き合い、神が自分に何をするかにのみ関心があれば、敵に全精神を奪われはしないのでしょう。
 
同じように喜ぶ意志をもつ者と親しくしたまえ。しかしもし悲しむ仲間がいたら、自分だけ喜んでいられる場合ではないので、エンパシーの心で共にいるのがよろしい、との忠告。一つの感情でありたいし、信仰についても同じ希望を懐くようでありたいものです。パウロは立て続けに、人としての優しさと強さとを駆け抜けに叫んで行きます。
 
身分が、あるいは今の時代なら立場の良くない人と交わり仕える思いをもつとよろしいようです。自らを偉い者と自惚れてはいけません。悪に対して悪を返すことは望ましくありません。こうしたパウロのアドバイスを見てくると、悪や苦へは反発し、善や悲へは徹底して共感をもつよう促しているように見えます。一つになるためです。


Takapan
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