肉体と礼拝

チア・シード

ローマ12:1-8   


自分の肉体を、生きたいけにえとして献げよ。大胆な命令です。これだけでもびっくりするには十分な言葉ですが、これが、イスラエルが実は救われるという、神の知恵の巧みさを長々と述べた直後であることに、私は戸惑います。何が善いとか悪いとか、人間が簡単には決められないという挙げ句、肉体を献げるのは当然だ、とくるのですから。
 
私たちは殊更に、このようなことをしなければならないのでしょうか。12章からは、生活あるいは人生への具体的な指針を告げるようにローマ書は転換するとよく言われます。でもそう簡単に割り切ってよいのかと思わされます。信仰による義だとか罪に死んでいるとか、格好良いことを説いた末、立派な生活をせよ、で落ち着くしかないのでしょうか。
 
8章では、肉の思いが死であり、肉の内にあることは神の意に反すると告げていました。将来の栄光のためには、肉の内にあることは禁なのです。この「肉」はサルクスです。即物的な印象を与えます。12章の「肉体」はソーマです。全体のまとまりを感じさせます。大きく見れば教会のような共同体をも示すことができます。この箇所の後半のように。
 
次にパウロは礼拝へ視点を移します。聖書協会共同訳は「理にかなった礼拝」としていますが、これまではたとえば「霊的な礼拝」と考えられることもありました。ギリシア語では「ロギコス」ですから、ロゴス的な、というような感じです。定訳の難しい語ですが、日本語なら「理」に匹敵し、この概念が最も似合っているだろうと思います。
 
このロゴス的なものは、この世、つまりアイオーンにどっぷりと浸かるものであってはならないものです。目を神へ向けようではありませんか。あなたはどこにいるのか。どこに立っているのか。一人ひとりがそのように問われています。そうした一人ひとりが、キリストの体としてつながっています。これが一つになっているという意味なのです。
 
確かにそれぞれ、人はできることが違います。才覚も様々であり、与えられた能力も異なります。また、存在自体に意味がある、というような人もいるでしょう。誰もが、確かに一つの体です。一つのソーマです。献げたはずのソーマは、単に棄てられたものなのではありません。神に主権を委託したあり方をしているのが、この肉体であるのです。


Takapan
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