救いは民族で違うのか

チア・シード

ローマ11:1-10   


神はイスラエルの神を捨てたのではない。パウロがこう言うからには、当時すでに、イスラエルを神は救いから除外したのだという考えが広まっていたことを意味します。それとも、パウロがテクニックとしてそう言ったのでしょうか。初めは、イスラエルの救いを志していたであろうイエスとその弟子たちの活動がガリラヤから始まったわけでした。
 
それに対してパウロは、異邦人への伝道を神から示されたと思いました。ユダヤ人たちの妨害に遭い、また危険に苛まれ、嫌気がさしたのかもしれません。パウロはエルサレム教会や弟子たちの中心的な動きから、弾き出されてしまいました。仲間たちもそんなパウロについて行く者はおらず、パウロは孤独だったと思われます。
 
ところがこうして、イスラエルは捨てられたのか、とローマ教会に挑みかかることで、パウロは逆に、異邦人の救いこそがメインであって、もはやユダヤ人への救いなどというものがありえないという説が一般的になっていますよ、という印象を与えることができたということになります。裏の裏をかくような、抜け目ない作戦であるように見えます。
 
もちろんここには、神がイスラエルを捨てた、という結論はありません。それで、イスラエルの救いの事情を、改めてここに開示するわけです。それにより、異邦人の救いというものを自然に正当化することもできると考えていろのです。ローマ人の顔も立てるし、ユダヤ人も同様に救われるという、適切なコメントにもなっていると思われます。
 
パウロ個人がユダヤ人に酷い目に遭いました。殺されそうにもなりました。その恨みのようなものが含まれていたかもしれません。ユダヤ人の中に、どうしようもない神の敵がいまやいるのも確かです。そこでエリヤの例を挙げ、敵もいるが味方も必ず神は残しておくのだと励まし、神の民がイスラエル民族の中にも残されていることを証拠立てます。
 
これが恵みというものです。人の側の思惑や狙いですべて決めるのではなく、神がそう計らっているのだと理解するのです。イスラエルの民であろうと異邦人であろうと、羊と山羊を分ける場面はあるはずです。そこで敢えて申し上げますが、私にはいま現実にある教会やそのクリスチャンが、この「イスラエル」のように見えて仕方がないのです。


Takapan
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