聞く・信じる・求める・伝える

チア・シード

ローマ10:14-18   


信は聞くことに始まる。もう少し正確に原文をたどると、「信は聞くことから、それもキリストの言葉を通して聞くこと」というふうになります。イザヤ書を引いてきて、苦難の僕の重要な始まりを味わいつつ、聞いて信じることをパウロは訴えます。ユダヤ人たちも耳にしていたのですよ、と述べていることになります。
 
神はこれまでも語っていました。語り続けていました。人はそれを、音として、または文字として、受けて知っていたかもしれませんが、その人自身が変わるように、心の内に働き掛けるにまで届いてはいなかったわけです。信頼と訳そうが信仰と訳そうが、まず外から聞くということ、そこから始まらなければ、何も始まらないということです。
 
この文には、実は動詞がありません。邦訳のように動詞を補うのもよいのですが、元々省略されやすい繋辞のみ加えて、「信は聞くことからである」とするのが無難でしょうか。ここで「聞く」という語は、聴覚的な意味合いの強いもので、比喩色の濃いものではないように見受けられますが、まずは耳で聞くこと、そのスタートを示している理解でよいでしょう。
 
ユダヤ人も、イエスがメシアであるという福音をさしあたり耳にすることがなければ、救いの壮大な計画の一員となることができません。待望のメシアが現れたという知らせは、受け容れがたいものであるかもしれませんが。パウロは、とにかく先ずこのニュースを届けることを止めようとはしませんでした。宣べ伝える者であろうと望み、命を賭けてきました。
 
もしも現代にパウロがいたら、インターネットやSNSを喜んだのではないかと私はいつも推測しています。どんなにその労を軽減できたことでしょう。しかし当時は、あのペースで、時間が流れていたのですから、なにもあれだけの労苦が無駄であったとは思いません。いつの時代でも、その時代に相応しいスピードや環境というものがあるものです。
 
パウロは自分自身へ、褒める言葉を与えてよいと考えていたと思われます。福音という訳語が定着する以前なので、イザヤ書やナホム書の時代にはそうは訳せず、良い知らせと訳すしかなかったはずですが、そうした預言者の書からそれを見出し、これを届ける者の足は美しいのだ、ということを自分のこととして喜んでいました。
 
聞くこと。そこから信が生まれること。そしてそれから、その神を求めることができるようになること。ここではユダヤ人の出来事が想定されていますが、誰であれ、人が福音を聞いて信じて救われるようになる過程には、これがあって然るべきでしょう。ですから、とにかく先ず、伝えること、聞かせることを、私たちも心がけ、伝えることを実行したいのです。


Takapan
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