幻の言葉で称える

チア・シード

黙示録7:9-12   


神と小羊の大いなる怒りの日(6:17)が来た。天使が十二部族の選ばれた面々に刻印を押しますと、白い衣の大群衆が現れます。これはイスラエル部族に制限されてはいないようです。民族も言語も異なる様々な人間の混じった群衆です。手にはなつめやしの枝、エルサレムにイエスを迎えた人々にも似ますが、もう今度は裏切るような者たちではありません。
 
ここは神と小羊の座の前。ひたすら主を賛美します。これに合わせるかのように、あるいは応えるかのように、4人の天使たちも神を礼拝して称えます。群衆は、救いが神と小羊にあると歌い、天使たちはこれにアーメンと唱え、賛美・栄光・知恵・感謝・誉れ・力・権威が世々限りなく神にあるように、と言葉を献げます。アーメン、と。
 
荘厳な雰囲気が漂います。ついそこに酔いしれてしまいそうです。この次に長老の一人が白い衣の群衆とは誰かと問い、自ら答えるには、小羊の血で衣を洗った者たちであるという、ショッキングな経緯が明らかにされます。少しく悲しい事情です。世界中の国々にそういう人たちがいました。かつていたし、これからも世が続く限りいるでしょう。
 
黙示録は、こうした世界の出来事を、世の終わり、つまり終末の時から振り返って見るスタンスをとります。私たちは私たちの時間の示すままに経験を重ねていくしかありません。予言を意識して辿るというのではありません。後になればそうだったのかと気づくようなあり方しか望めません。ところが世にはせっかちな精神があるものです。
 
時に、聖書の謎を解いたとか、自分には分かるとか吠える者が現れますが、哀れです。この黙示録でさえ、それを見せられ筆記した者自身、何がなんだか分からなかったのではないでしょうか。しかも、見せられたものをなんとか自分のボキャブラリーを用いて書かねばという使命感を抱きつつ、貧困な自分の語彙を嘆いていたのではないか、とも思われます。
 
書くほうでさえそうですから、文字という記号で書かれたものを通して受け取る私たちにとっては、情報が不足し過ぎています。伝言ゲームのなれの果てです。解読する私たちにも知恵が欠けすぎています。謎解きの愉しみに耽るよりは、神と小羊を称える人々の姿に倣い、大声で叫び礼拝し、賛美をしているだけでよいのではないでしょうか。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります