幻にどう向き合うか

チア・シード

黙示録5:6-14   


ミステリーファンには堪えられない素材が黙示録にあります。とにかくまだ誰もこの謎を解いていないのです。答えを誰も知らないものですから、描かれたその幻にすべて説明を施そうとする強者もいます。けれども、万人が納得する解説を与えるということは、不可能でありましょう。でも、これも私たちに与えられた、神からのメッセージだとすると……。
 
中には、黙示録自体に価値を置かず、本気で相手にするのは愚かなことだと冷ややかに嗤うような人もいますが、自分の都合で聖書を判別して価値を定めるというその姿勢に、私は賛同できません。もちろん、聖書そのものがどう編纂されたか、それは人間の業ではないか、とも言われましょうが、それもまた摂理であるとすればどうでしょうか。
 
ここには4,7,24といった数字が登場します。万の幾万倍という数もあります。これらの象徴的な意味は何か、と血眼で探す人もいるかと思います。それも、神秘的ですし、記者の意図があるかとは思いますが、最終的なところは人間には解明できない、というあたりの結論が妥当ではないでしょうか。書いた本人すらよく分からないかもしれません。
 
屠られた小羊のように見える存在。玉座の近くに立っている七つの目は、七つの霊であり、手紙を七つの教会へ送った主であると思われます。神から巻物を受け取り、4つの生物と24人の長老たちのひれ伏しを受けています。その手の金の杯からは聖徒たちの祈りの香が満ちていました。巻物の封印はこの小羊によって解かれるべし、と新しい歌が歌われます。
 
屠られた小羊が称えられる図式をかつての教会は如何に大切に扱ったかが伝わるような気がします。やがて天使が無数に現れ、小羊を賛美します。あらゆる生き物も称えます。玉座近くに代表しているかのようなあの4つの生き物と24人の長老たち、つまりイスラエルの象徴であるような者たちが、アーメンと神を礼拝します。
 
小羊と神との区別ももはや曖昧となります。あらゆる定義や法則を超えて、不思議な世界が言葉で襲ってきます。しかし考えてみれば、聖書あるいは神からの言葉というのは、すべてそういうものではないでしょうか。私の理性に納得されて、ああ良い話だと満足しながら受け容れられるようなものが、そもそも聖書にあったでしょう。あってよいのでしょうか。
 
聖書自体、信仰することで命を落とすような苦しい環境の中で書かれたものです。だからと言ってただ顔を歪めて歯を食いしばって耐えるばかりのメッセージが福音だということもないでしょう。私という存在が、そもそも間違っているという前提から始まる必要はあるでしょう。だとすれば、たとえばこの小羊を殺した自分という位置づけを欠くことはできません。


Takapan
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